誰かのための物語
病院からの帰り道、公園の前を通りかかると、見知った顔を見つけた。あちらも僕に気付き、手を振る。

「たつき兄ちゃん!」

「やあ、かおるくん」

かおるくんは近所の子で、今は確か五歳だったはずだ。お母さんのゆいこさんと一緒によくこの公園に遊びに来ていた。初めて会ったのは、僕が高二になったばかりのときだったから、もう一年の付き合いになる。

手を振り返し、公園の中へと入った。

かおるくんは、今日もしゃがみ込んでコンクリートのキャンバスにチョークで絵を描いていた。ゆいこさんは、近くのベンチに座ってその様子を見守っている。

こんにちは、と彼女に会釈をしてから、僕は陽だまりの中にいるかおるくんのそばにしゃがみ込んだ。日差しが暖かい。かおるくんのさらさらとした髪は光を反射して輝いていた。

「なに、描いてるの」

「イルカ。ここぜんぶ、海なの。いま、たつき兄ちゃん海の中だよ」

「そっかぁ」

ここ、とはこのキャンバスのことだ。この公園の中央にある三メートル四方ほどのコンクリートは、水で落とせるチョークに限り絵を描いてもいいことになっていた。

かおるくんと僕はよく、ここに絵を描いて遊んでいた。海、空、森……と、描くものはかおるくんが決める。今日は海だ。メインとなる絵はかおるくんが描き、僕は背景を担当した。空の絵のときは白鳥を、森の絵のときは兎うさぎを描いていた。

初めて会ったときも、僕がランニングをして通りかかったところに声をかけられ、促されるままに絵を描いた。一緒にそうやっているうちに、僕らは仲よくなったのだ。

「じゃあ、お兄ちゃんは、あわをかいて」

「わかった、泡ね。何個くらい描こうか?」

「いっぱい!」

子どもらしくかわいい返答に思わず僕は笑ってしまった。よし、いっぱいだねと言って水色のチョークを手に取り、かおるくんが大きく描いているイルカの周りに泡を描き始める。

描いているとき、僕らは決まって無言だった。おしゃべりが嫌いなわけではないけれど、お互い集中していたのだ。ただ、絵を描いているときには会話は必要なかっただけ。

ふと、視界の右側に影が落ちたのを認め、顔を上げると、ゆいこさんが優しい笑みを浮かべて立っていた。

「立樹くん、右手よくなったんだね」

「はい。さっきギプスが取れたばかりで。早く絵を描きたいなって思ってたところなんです」

この前、まだ治ってないときにふたりに会い、せっかくの機会だったのに一緒に絵が描けなかった。かおるくんは寂しそうに『たつき兄ちゃんはやく手なおってね』と言った。

「タイミングよかったね。この子も、早く立樹くんとお絵描きしたいなって言ってたの。いつもありがとね」

ゆいこさんは、温かい眼差しでかおるくんを見ながら言った。

「こちらこそ。僕も、かおるくんと一緒に絵を描くの好きです」

僕の言葉に安心した様子のゆいこさんは、「用事があるからあとで迎えに来るね」と言って僕にかおるくんを預け、公園をあとにした。

それから僕とかおるくんは、夢中で絵を描き続けた。泡を描き終えると、僕は背景も描いていった。どんどん、キャンバスが色鮮やかに染まっていく。不格好ながらも、

のびのびとしたイルカが泳いでいる。

自分の身体が日差しで温まっていくのと同時に、心も温まっていくのを感じた。やっと絵を描けていること、かおるくんと一緒に絵を描くことを通して、心を通わせることができることが嬉しかった。
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