向日葵
第十話
秋。読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋、人それぞれの秋がある。四ヶ月前、飛鳥が結婚して一秋は一人になった。たまに顔を見せてくれるが、飛鳥には飛鳥の家庭があり頻繁には来れない。一抹の寂しさが一秋を包む。
一秋は今日で五十歳となったが、再婚を考えられない年齢でもなかった。しかし、一秋の心の中では未久の存在が大きく再婚をする気は全く湧かない。
今までどんな辛いことがあっても未久の言葉を思い出すことで立ち向かえてこれた。未久との約束が一秋を支えていた。しかし、飛鳥を育て上げ約束を果たした今、一秋は生きる目的みたいなものを無くしたような気がしていた。
あの結婚式で未久に逢えたのは飛鳥だけだった。未久は最後の一回を飛鳥のために使った。もう少し早く控え室に向かっていれば逢えたかもしれない。あのときの行動を悔いることもあったが、飛鳥の幸せそうな姿を思えば正しい選択だったと思う。
一秋は飛鳥が未久と会ったと言った近所の公園を一人歩く。よく晴れた日曜日ともあって親子連れで遊びに来ている姿が多く見られる。一秋は空いたベンチに座ってそれを眺める。父親と母親と娘の三人家族がボール遊びをしている。子供は幼稚園児くらいだ。
(そういえば昔、あんなふうに遊んでやったことがあったなぁ)
飛鳥は幼稚園の頃、よく一人でこの公園に来ていた。きっとまた優しいお姉さんこと未久に会えると思って毎日通っていたのだろう。今日のような休日にはよく二人で遊んだが一度として母親のいない寂しさを口にしたことはなかった。子供でありながらすでに親のことを気遣っていたのかもしれない。しかし、ある日未久のことについて真剣に話し合ったことがある。飛鳥が中学二年生の頃だ。
「パパ、私が幼稚園の頃に会った人ってママなんだよね?」
「ああ、そうだよ。飛鳥自身がそう言ったんだからな」
「でも、見間違いかもしれないし。今思うとよくわからない……、だって、ママは私を生んですぐ死んじゃったんでしょ。普通に考えれば会えるわけなんてない。きっと私の見間違いだったんだよ……」
「飛鳥がそう思うのならそう思えばいい。パパは実際見たわけじゃないからね。でもな飛鳥、パパはこの先の未来ママが必ず飛鳥の前に現れると思うぞ」
「そんなこと、あるわけないよ」
「飛鳥が信じる信じないはまかせるけど、ママは死ぬ前に自分は過去・未来と時間を越える力を持っている、と話してくれた」
「えっ……」
「本人がそう言っていただけだから本当かどうかはわからない。ただ、飛鳥が子供の頃ママに会ったように、パパも子供の頃にママに会っているんだよ」
「本当?」
「ああ、もっともパパも子供の頃だったし断言はできない。でもそのときママにあげたブローチをママは持っていた。話を裏付けるには十分じゃないだろうか?」
「それじゃあ、この先の未来ママに会えるってこと?」
「そういうことになるな。だが、一回だけだ」
「えっ? どうして一回って分かるの?」
「時間を越えることができるのは三回だけだと言っていたからだ」
「パパで一回、私で一回、ってことかぁ。いつ頃なの?」
「それは言わない方がいいだろう。パパにもその日に必ず現れるとは言い切れないからな。でも、予想はついている。飛鳥が一番傍にいてほしいと思うときに現れると思う」
「そうなんだ……」
「信じるか? 今の話」
「もちろん信じるよ! パパは昔私のこと信じてくれたもの。今度は私が信じる番だよ。バカげた話をね」
「ああ、ありがとう」
あのとき、あの話をしたから飛鳥は前向きに生きてこれたのかもしれない。死んでもなお未久は飛鳥と自分を支え続けてくれたことになる。その証拠に飛鳥はいつもあのブローチを身につけていた。「持っていると勇気が湧いてくる」と未久に言われたのが大きいのだろう。
一秋はポケットからその向日葵の形をしたブローチを取り出す。昨夜、誕生日を一日早く祝いにきた飛鳥から手渡されたモノだ。
「このブローチは私にはもう必要ないみたい。たくさんの勇気と幸せをくれたから。今度はお父さんが幸せになる番だよ」
実の娘にそう言われても再婚は考えることはできない。未久への想いは全く色あせていないのだ。一秋はブローチを見つめながら未久を想う。
(未久、俺の時間はあの頃から止まったままだ。想いも気持ちも……)
暖かい風が吹く。公園の枯れ葉が音をたてて飛んでいく。公園にはいつの間にか一秋一人になっていた。一秋は目を閉じて空を仰ぐ。太陽の光が普段より暖かく感じる。これからは寒くなる一方なのだろう。
耳をすますと車の音、犬の鳴き声、木の葉が走る音、いろんな音が聞こえてくる。人の歩く音も。その足音は一秋の前に止まる。一秋はゆっくり目を開ける。
「…………」
「…………」
お互いはお互いを見つめたまま話さない。一秋はようやく口を開く。
「これは夢か……」
相手が答える。
「ええ、夢よ。とっても不思議でとっても素敵な……」
「そうか、だったらせめて夢の中でもいいから傍にいてくれ、未久……」
「いるわ、いつも傍に」
未久は一秋に寄り添うようにベンチに座る。
「もし夢なら覚めないでほしいよ」
「そうね、でも覚めない夢はないのよ」
「そうだな。なぁ未久。飛鳥、結婚したんだぞ。あの赤ん坊だった飛鳥が。早いもんだ、あっという間だった……」
「ええ、一秋さんには苦労ばかりかけたと思う。本当に感謝してる。本当にありがとう、一秋さん……」
「約束だからな」
「うん」
二人はしばらく黙ったまま空を眺める。雲一つない青空だ。
「未久、また逢えるのか?」
「もう、逢えないわ。今回で最後」
「そうか、四回だったんだな、本当は」
「うん、嘘をついたの、飛鳥の提案で」
「飛鳥の? じゃあ、飛鳥は知っていたのか、四回目があるってことを」
「そう、結婚式のときに言われたの、嘘を言って驚かせてみたらって」
「なるほど、だからか。昨日のあの態度とセリフ。理由が分かったよ」
昨夜、一日早く誕生祝を持ってきたことに疑問は感じていたものの、未久の説明で納得がいく。
「ごめんなさい。でも、こっちの方が一秋さんも喜んでくれるんじゃないかと思って。怒った?」
「怒るわけないだろ? ありがとう未久、逢いに来てくれて嬉しいよ」
「よかった。やっと笑ってくれた。ベンチで一人座っていたあなたはとっても寂しそうに見えて心配だった。けど、もう大丈夫みたいね」
「ああ……」
見つめ合っていると、未久は寂しそうな顔で目を伏せる。
「そろそろ時間みたい……、もう、ここにはいられない」
「そうか」
「私、これから死ぬんでしょ?」
「…………」
「怖くはないの、もう悔いが残らないくらいの幸せを貰ったから。ただ……」
「ただ?」
「一秋さんのことが心配。飛鳥がお嫁に行って一人ぼっちでしょ。再婚を考えてもいいんじゃない?」
「未久がいるよ」
「もういないでしょ。私はもうこの世にいないの、だから私に代わる大事な人を見つけて幸せになってほしいの」
「未久が一番大事だよ」
「ありがとう、嬉しい……。わかった、無理強いはしない。でももし、そんな出会いと機会があったら私のことなんて考えないで結婚していいから。それだけは約束して」
「わかったよ」
「うん、お願いよ。じゃあ、そろそろ、行くね……」
「未久、これを」
一秋はポケットからブローチを取り出し手渡す。
「……うん、ありがとう。これを持っていると勇気が出てくる……」
「なぁ、未久」
「なに?」
「そのブローチの花、向日葵の花言葉って知っているか?」
「ううん、わからない、なに?」
「『ずっとあなたを見つめている』だよ」
「そう、なんだ……、なんでかな、勝手に涙が溢れてきちゃうよ。すごく悲しい別れじゃないのに……、すごく幸せな気持ちでいっぱいなのに……、なんで、どうして、涙が止まらない……」
「未久」
「一秋さん、私からの最後のお願いをきいて。消える瞬間まで私を抱きしめていて……」
「言われなくてもそのつもりだったよ」
そう言うと一秋は正面から未久を優しく抱きしめる。
「さようなら、一秋さん、愛してる……」
「さようなら、未久、俺も愛してるよ」
未久の身体は一秋の腕の中で溶け込むように消えていく。一秋は目を閉じてたたずむ。よく晴れた空の下、一つの秋が終わりを告げた。