向日葵
第一話
満員電車に揺られながら月岡一秋(つきおかかずあき)は憂鬱な想いで通勤時間を過ごす。一年付き合った彼女と先週別れたばかりで、公私共に力が入らない。仕事が忙しかったというありがちな理由とは言え、まる二週間音信不通だと愛想を尽かされても文句は言えない。強いて言えば、それでも我慢強く待ってくれる相手を選ばなかった自分に見る目がなかったとも言えた。
勤めている会社も二年目になり、基本の営業以外の仕事も任され、忙しいながらもやる気を感じているさなかでの失恋でダメージも大きい。
(外回りに出たらソッコーでサボろう……)
最寄り駅に電車が停まりおぼつかない足どりで下りると、会社に到着する前から今日のサボリプランを想像する。よく使うパターンではマンガ喫茶か図書館が定番だが、心地の良い初夏の季節だと公園という選択も悪くない。
シリアスな表情で下らないことを考えつつ階段を上ろうとしたとき、背後から悲鳴が聞こえてくる。周囲の通勤通学者もその悲鳴につられ、ほとんどの人がホームの方を向く。一秋も当然ながらホームを見る。
(一体なんだ?)
少し背伸びして人込みから頭を出して見ると、線路内に横たわるベビーカーと慌てふためく女性が目に入る。しかも、その線路の先にはうっすらホームに入ろうとする電車のシルエットが見て取れた。
(おいおい、コレやばいだろ)
ベビーカー近くのホームには数人の男性がいるが、見ているだけで全く動く気配がない。
(なにやってんだ。もう電車が来てるだろ!)
内心そう思うものの一秋本人も動けず、ただじっとその光景を眺めている。
(くそ、俺が行くしかないか……)
覚悟を決めてホームへ足を踏み出すと同時に、スーツ姿のOLが恐る恐る線路内に降りていく。先を越され一秋は戸惑いながらもその女性を見つめる。母親らしき女性を先にホームへ上げ、ベビーカーのベルトに固定された赤ん坊を抱き上げると母親に抱き渡す。
(よし! いいぞ、早く逃げろ!)
一秋のみならず周りの人間が全員そう思っていた矢先、女性は線路に引っかかっているベビーカーを外そうとしている。
(バカか!)
その光景を見た瞬間、一秋は走って線路に飛び降りる。
「何やってんだ! そんな物ほっといて早く上がれ!」
突然大声で怒鳴られ女性は驚いた表情になるも、近くに見える電車が目に入り危機を悟る。
「俺が台になるから早く上がれ!」
「は、はい!」
四つん這いになった一秋の背中を借り、女性は難無くホームに上がる。その様子を確認すると一秋も自慢の脚力で飛び上がろうと試みる。しかし、何の不運かスボンの裾がベビーカーの取っ手に引っ掛かり、盛大に転倒し顔面を強打してしまう。転倒の痛みと同時に、鳴り響く電車の警笛と強くなるレールの振動を感じ一秋は死に直面していると悟る。
(この野郎! 絶対許さん! ベビーカー!)
電車うんぬんを抜きにして、ベビーカーのせいで転倒したことに一秋はキレる。引っ掛かっている取っ手を掴むと、力任せにホームの空中へ高く投げ込む。外見はスリムだが元柔道部ということもあり、重いものを投げるという行為については自信がある。
投げたベビーカーがホームに落ちるより前に、素早く跳躍しホームに着地する。一秋がホームに退避しベビーカーが床に落ち大破した瞬間、背後で急ブレーキ音を鳴らしながら電車が入ってくる。立ち尽くし鼻血を出しながら肩で息をしている一秋を、周りの人は唖然として見ている。
(思い知ったか、このベビーカーめ!)
壊れたベビーカーを満足気に見下ろしていると、先に上がったOLが近づいて来る。
(何か礼を言われるんだろうな)
鼻血を拭きつつ少し誇らしげな横顔でたたずんでいると、女性から予想外な言葉が発せられた。
「ベビーカー、弁償してあげて下さいね」
「えっ?」
「私を助けてくれたことは感謝してます。けれど私を助けてくれたことと、ベビーカーを壊したことは別だと思います。見てましたけど、明らかに壊すつもりで投げてましたよね?」
思ってもみなかった問い掛けに一秋は呆然とする。
(ベビーカーのせいで死にかけていたのに、そのベビーカーの弁償って意味分からん。つーか、俺、命の恩人だよな?)
何も言えずに戸惑っていると、遅れて駆け付けた鉄道警察隊が間に入って来る。結局、詳しい事情を交番で聴取されるハメになり、それが終わる頃には始業時間を大幅に周り、上司から嫌味を頂くことになった。
朝一から大変なトラブルに巻き込まれ終日イライラするも、三人並んで聴取を受けているときに聞いた、桐島未久(きりしまみく)というOLの事を思い浮かべ、言われもなく心がざわついていた。