恋は質量保存の法則
第一話
幸せの定義とは何か。美味しいものを食べブランド品に囲まれた生活か、はたまた安定公務員とのゴールインか。
質素ながらも健康で笑いの絶えない家庭か、あるいは共に同じ苦労を背負い生きて行くことか。千差万別、十人十色、幸せの形やそれに向かう道程すら人の数だけ存在する。
藤崎律佳(ふじさきりつか)はキッチンテーブルに広げたアルバムを見つめながら溜め息を漏らす。めくられたページの情景に学生時代を懐古しては、時に思い出し笑うも直ぐに陰鬱な顔になる。
目に止まる切り取られた過去の一シーンには、文化祭で陣頭指揮を執る男子生徒の活発な横顔が写っていた。
「坂本君、今どこで何してるんだろ。やっぱり地元で働いてるのかな? 頭良くって凄く頼り甲斐あったし、カッコいいまま大人の男になってるのかも……」
写真の中に居る坂本純平(さかもとじゅんぺい)に語り掛けるかのように呟く。
写る黒板の奥の方には髪型から服装まで優等生で芋っぽい律佳自身と、当時唯一親友と呼べたクラスメイトの相田那津(あいだなつ)の姿も見える。
早春という季節がそうさせるのか、律佳は窓から吹き込む冷たい風を寂しさと共に肌で感じつつノスタルジーに浸っていた――――
――その夜、いつものようにスーパーで買い物を済ますと食事を作りキッチンテーブルに整然と配膳する。
本人は元々几帳面な性格でもなかったが、夫である藤崎正晃(ふじさきまさあき)との生活により変化せざるを得なくなった。
おかずは毎食六品以上。国産物使用で惣菜及び冷凍食品も禁止。結婚当初に正晃が出してきた命令にも似た食事指針に律佳は辟易する。料理自体は嫌いではないが様々な制限を設けられるとプレッシャーにもなり、それが毎日ともなると多大なストレスとなっていた。
合コンで相手が公務員と知り、そこからの積極的なアプローチの末にゴールイン。周りの誰もが羨み二人の門出を祝った。安定の生活を手に入れた律佳はそれに報いるという意味もあってか、家事につき努力を惜しまず今日に至っている。
自画自賛となってしまうが、今のご時勢でお節料理を全て手作りできることを自身で褒めたいと常々思っていた。
結婚してから丸三年、正晃は真面目に仕事をこなし生活面においては苦労することなく過ごしている。その一方で、妻として女として互いに心が繋がっているかと自問すると肯定的な回答は浮かばない。
最後に手を繋いだ日がいつだったのかすら忘れてしまっている。イスに座り考え込んでいると、携帯電話の着信音がキッチンに流れ律佳はおもむろに手を伸ばす。届いたメールの内容を確認すると溜め息を一つ吐いてからゆっくりと箸を持ち上げた。
食事を終えると料理にラップをかけ入浴を済まし、広いダブルベッドに一人横たわる。残業の多いセクションに就いているとは言え、結婚して以降すれ違う日々が増えたように思う。
真面目な正晃が浮気しているとも思えず、純粋に仕事だからこそ責めようもなくただ我慢するしかない。明日は自身の誕生日ながら例年通りきっと虚しい一日になるだろうと、天井で輝くオレンジ色のナツメ球を見つめながら律佳は思考する。
(分かってる。結婚する相手を人柄じゃなく年収や職業という条件で選んでしまったゆえの結果だって……)
付き合いを決めた当初の望んだ通りの条件であり、望んだ通りの安定した生活。自身の望んだ計画通りの人生であるにも関わらず、実際に手に入れてみてそれが本当に望んだ結末ではなかったのだと悟る。
(私の幸せはここには無い。私は間違ってた。結婚と恋愛は別物だったんだ。目先の欲に目が眩んで、本当に大切なものを置き去りにしてきてしまった)
古いアルバムを頻繁に見返すようになってからは特に顧みることが多く、律佳は自身のことを『恋を知らずに結婚した女』と形容していた。
(恋心を捨てて欲を取った女。ふふっ、お笑い種だわ。今の私は生きてて死んでいるようなもの。かと言って今の全てを捨てて新しい人生を歩む勇気なんて持ち合わせていない。私はこのままこうやって孤独に朽ちていくのね)
自嘲気味に笑いつつ過去を振り返る。
(もし過去の自分に説教できるなら、もっと恋をしろって言いたい。傷ついてもいい、泣いてもいいから沢山恋して、心の底から本当に好きになった人と一緒になって欲しいって。馬鹿な私にそう言いたい……)
過去の言動を自戒しながら目を閉じると律佳は深いまどろみの中に落ちていった。
翌朝、眠気まなこをさすりながら寝室から出て洗面所に向かっていると、キッチンでコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる正晃の後ろ姿が目に入る。
(えっ、嘘!? 昨日泊りになるってメールがあったのに。油断してかなり寝坊しちゃった)
洗面を手早く済ませ慌ててキッチンに向かうとエプロンを取りながら挨拶を交わす。
「おはようございます、正晃さん。直ぐに朝食用意しますね」
「おはよう律佳、ご飯は作らなくていい。もう出勤するから」
「ごめんなさい、メールで泊りになるって書いていたのでつい……」
「言い訳だね。僕が帰ろうが帰らまいが規則正しい生活をしていれば問題のない話だ」
反論しづらい雰囲気と語気に律佳は押し黙ってしまう。その様子を確認すると正晃は新聞を綺麗に折り畳み、イスに掛けていた上着を取る。出勤の気配を察し玄関方向に歩んだ瞬間、手で進路を遮られ再び制止させられる。
「見送りはいい。そんな寝巻の格好で見送られても嬉しくないし」
パジャマ姿で寝癖もあることは分かっていたものの存在を含め全てを否定されたような気持ちなり、正晃が出て行った後も力なくキッチンで立ち尽くしていた――――
――通勤ラッシュを終えた午前九時、律佳は山陽新幹線の車内にいた。兵庫から高知へと向かうには岡山駅からの乗り換えが必要となる。今朝のことが契機と捉え、自分の存在を含め全てに嫌気が差した律佳の足は自然と故郷へと向かっていた。
新幹線から特急列車への乗り換えを経て、昼過ぎには目当ての足摺岬へと到着する。この足摺岬は眺望も良く観光スポットとしても有名だが、もう一つ自殺の名所としての顔を持っていた。潮風に吹かれ水平線に広がる太平洋を眺めながら律佳は想いに耽る。
(あんな牢獄みたいな家になんてもう帰りたくない。帰るくらいならいっそ大きな太平洋の中に……)
自殺を考えての帰郷ではなかったが抱えている今の気持ちが軽くなるのだと思うと、足は少しずつ崖の方へと進んで行く。岸壁まで歩みを進め崖下を覗き高さを確認するも、波風強く側に立っているだけで身震いを覚える。
「ダメ、怖い、高い、ムリ」
あっさり自殺願望への反旗を翻し颯爽と踵を返そうとした次の瞬間、背後から男性が大きな声を上げる。
「なにやってんだ!」
「うわっ!? 何?」
声に驚き後退った刹那、後退るほどのスペースが背後にないことを思い出した律佳だったが、宙に浮くような感覚を受けて二十六年間の記憶が走馬灯のように駆けて行くのを感じていた。