恋は質量保存の法則
最終話
目覚まし時計のアラーム音でベッドから起き上がると、眠気まなこをさすりながら洗面所に向かう。昨夜のメールで正晃が夜勤と知り帰って居ないだろうとたかをくくっていたが、リビングを覗くとコーヒーを飲みながら新聞を読んでいる後ろ姿が目に入る。
(えっ、嘘!? 昨日泊りになるってメールがあったのに。油断してかなり寝坊しちゃった)
洗面を手早く済ませ慌ててキッチンに向かうとエプロンを取りながら挨拶を交わす。
「おはようございます、正晃さん。直ぐに朝食用意しますね」
「おはよう律佳、ご飯は作らなくていい。もう出勤するから」
「ごめんなさい、メールで泊りになるって書いていたのでつい……」
「言い訳だね。僕が帰ろうが帰らまいが規則正しい生活をしていれば問題のない話だ」
反論も出来ず押し黙っていると、正晃は新聞を綺麗に折り畳みイスに掛けていた上着を取る。出勤の気配を察し歩み寄ろうとした瞬間、手で進路を遮られ再び制止させられる。
「見送りはいい。そんな寝巻の格好で見送られても嬉しくないし」
パジャマ姿で寝癖もあることは分かっていたものの存在を含め全てを否定されたような気持ちなり、正晃が出て行った後も力なくキッチンで立ち尽くす。
(やっぱりこの結婚は間違いだった。ここに私の居場所はない……)
込み上げる涙を我慢できず律佳はその場でしゃがみ込んでいた――――
――絶望感と孤独感に包まれた律佳は、衝動的に新幹線に乗ると故郷でもある高知へと足を向けていた。潮風に吹かれながら岬に立ち、水平線に広がる太平洋を眺めつつ律佳は想いに耽る。
(あんな牢獄みたいな家で毎日を過ごすくらいならいっそ……)
自身でもダメな考えだと理解しつつ岸壁まで歩みを進めていると背後から声が掛かる。
「なにやってんだ!」
突然の声にビクッとなり一瞬転落しそうになるがなんとか踏み止まり振り向くと、そこにはスーツ姿の正晃が息を切らせながら立っている。
「ま、正晃さん? なんでここに?」
「それはこっちの台詞だ。こんなところで何してる。まさか投身自殺しようなんて考えてないだろうな?」
「そ、それは……」
「図星か。そんなに僕との生活が嫌だったか?」
本人を前にして言い辛い回答に律佳は黙り込み立ち尽くす。その沈黙が先の問い掛けに対する肯定的な答えだと正晃も理解している。
気まずさから互いに語る言葉が見つからず沈黙を守っていたが、正晃の方から一歩歩み寄ると律佳を正面から抱きすくめ耳元で囁くように言う。
「ごめん、僕が仕事仕事で全然構ってやられなかったから律佳を追い込んでしまったんだな」
「正晃さん?」
「思い返せば結婚してからちゃんと向き合ったり話し合ったりしてこなかった気がする。もっと真剣に律佳と向き合っていればこんなことにはなってなかった。あと一歩遅かったら一生後悔するところだった」
思いもよらなかった正晃の気持ちを聞き、律佳の心は温かさを取り戻していく。
「本当に謝らないといけないのは私の方。私は正晃さんという人間を見ないで職業や年収と言った肩書で結婚を選んだ最低の女なの。嫌われても愛想をつかされても当然なくらい。私のような愛を知らない女を妻に持って正晃さんには申し訳ないって思う」
「そんなことはないよ。律佳は僕のために毎日毎日家事を頑張ってくれて、家を守ってくれてたじゃないか。律佳が居るから仕事だって頑張れた。誰かが待ってる明かりの灯った家に帰るだけでホッとした。言葉下手でちゃんと言えなかったけど、律佳には感謝してるし、愛している」
心に沁みる愛の言葉で律佳の心は光を取り戻し、自然と涙も溢れてくる。
「ありがとう、正晃さん。私も貴方を愛してます……」
見つめ合うと互いに唇を重ね、離れると同時に笑みがこぼれた。直ぐに岸壁から離れると、正晃は周りに人が居ないのを確認し照れながらおもむろに右手を差し出す。律佳も照れながらその手を握り返し、繋ぎながら菜の花が咲く駅への歩道へと向かう。
出会った頃のような雰囲気に体温が上昇しているのを感じていたが、律佳の脳裏にふと疑問が浮かぶ。
「あっ、正晃さん。今日仕事は?」
「サボった。何か嫌な予感したし、なんて言っても今日は律佳の誕生日だろ? 風邪ひいたって嘘ついて休んだ」
「じゃあ、私が家から出てずっと後をつけてたってこと?」
「そういうこと。ひょっとして裏で不倫してて、男のところに会いに行くのかなって、ちょっと不安になってた」
「まさか、私にそんな度胸ありませんから。正晃さんの方こそ実は良いお相手が居るとかない?」
「ないない、忙しくてそんな余裕すらない」
「そう、じゃあ忙しくなくて余裕があったらするのかしら?」
「なんでそうなる。意地悪だな~」
「そうなの、実は私は意地悪女なの」
そう言うとお互い笑い合いながら見つめ合う。
(なんか今とっても自然体な自分で居られてる気がする。正晃さんの言うようにもっといろいろ話し合ってれば良かったんだ。牢獄とか思ってたけど、私が勝手に柵を作っていただけかもしれない)
心が穏やかになりこれまでの生活を省みながら律佳は想いに耽る。正晃も同じ気持ちなのか普段見せないような穏やかな表情をしている。その横顔を見ていて律佳は出会った頃のことをふと思い出す。
(そう言えば、合コンで初めて会ったときにも思ったけど。どこかで会ったことがある気がする。住んでる場所も故郷も違うから気のせいだと思ってたけど……)
「あの、正晃さん。正晃さんって生まれは京都よね?」
「そうだよ。律佳はこの高知だったね」
「うん、変なこと聞くようだけど。合コンで出会う前、私とどこかで会ったことある?」
「出会う前? 僕の記憶では無いと思う。いや、可能性として全くないとも言えないか。ほんの一年だけ親の都合で高知の中学校に居たことあるからな」
「えっ、それどこの中学?」
「確か中央中学だったかな」
律佳は自身の出身校を耳にし驚き目を見張る。
「それ、私の出身校なんですけど。えっ、クラスは?」
「三年二組」
「隣のクラスだし。私、三組」
「本当か!? 偶然とは言え世間は狭いな」
「ホント、もう鳥肌が立つくらいビックリ。え、でも藤崎って名前の生徒って学年に居たかな? 記憶にないんだけど」
「ああ、さっき言った親の都合って離婚なんだけどさ。そのときだけ苗字が違うんだよ。その時の名前は冬馬。冬馬正晃」
「冬馬……」
どこかで聞いたことのある名前ながら、はっきりとは思い出せずもやもやする。
「なんか居たような気がする。名前を聞いたとき懐かしい感じがしたから」
「気がするって言うか居たんだって。あれだろ? 国語の担当が鯖食べられないからサバチャンってあだ名だった」
「あら正解、ホントに居たんだ」
「だからホントだって。ま、僕も律佳が同じ中学だったなんて知らなかったけどな。これって運命の出会いってヤツかもな」
「うん、なんかそんな気がする。今だから感じることなのかもしれないけど、正晃さんとの出会いは運命だと思う。根拠はないけど」
「こう言うことも含めてお互いもっとちゃんと話し合っていかないといけないってことか。改めて宜しくな、律佳。そして、誕生日おめでとう」
「ありがとう。私の方こそ宜しくお願いします」
菜の花の香りが風に舞う線路脇で手を取り合い見つめ合いながら二人は気持ちを新たにする。それは史実通りに歴史が軌道修正され、まだ見ぬ二人の未来が始まった瞬間でもあった。
(了)