恋は質量保存の法則
第二話
ジリリリリッ!という騒音にも等しい目覚まし時計のアラーム音で反射的に手を枕の上に持っていく。定位置にあるそれのボタンを荒々しく叩くと律佳は再び布団の中に潜る。低血圧ということもないが、学生時分より寝起きは良くなくまどろみを楽しむかの如くゴロゴロしていた。
(温かい布団の中ってやっぱり天国だ。朝食にはまだ早いし五分だけゴロゴロしよう~っと)
内心ほくそ笑みながら布団に包まっていると、けたたましい足音と共に部屋の扉が開き勢いよく布団がひっぺがされる。突然の事態に驚いているとベッドの傍で仁王立ちしている人物が吠える。
「いつまで寝てんの! さっきから起きろって何度も言ってるでしょ!」
甲高いその声の主にビクッとなり、飛び起き顔を確認する。そこには鬼の形相をした京子(きょうこ)が律佳を見下ろしていた。
「お、お母さん? なんでここに?」
「はあ? 何言ってんのアンタ? 早くご飯食べて学校行きなさい! なっちゃんが外で待ってるわよ」
(学校になっちゃんって、意味が分からない……)
キョロキョロと室内を見渡すと、正晃と夜を共にしていた寝室ではなく中学時代に住んでいたコーポだと理解できる。
「えっ、ここ、実家?」
「はあ? アンタ本当に大丈夫? 寝ぼけてるの?」
「寝ぼけて……る、のかな?」
「お母さんに聞かないでちょうだい。どうでもいいからさっさと支度してご飯食べなさい。全くもう……」
呆れ憤懣やるせない様子で京子は室内を後にする。扉にかかっているカレンダーを注視するも当時の西暦が記されており首を捻る。室内に残された律佳は現状を全く飲み込めずパジャマ姿のまま混乱の渦中にいた――――
――十数年ぶりに通すセーラー服に奇妙な感覚を覚えつつ着替えを済ますと洗面台の前に立つ。未だ収拾のつかない現状ながら通学という差し迫った状況に動かざるを得ず、当時のように慌てつつ準備をしている。鏡には若く肌のピチピチした自分が映っており、自分が中学生なのだと実感する。
(本格的に意味が分からない。タイプスリップというより二十六年間の記憶を持ったまま中学時代に戻ったって感じかな? っていうかまだ夢の中?)
教科書通りに自分の頬っぺたをつねってみるも激痛が走り夢の類ではないことは確かだ。納得のいかない面持ちのままキッチンに向かい朝食を取る。目の前には少し若い母と父の姿あり新鮮な想いが胸に込み上げる。
(そうよね、このときって家族仲良くご飯食べてたっけ。今でもお母さんたちって仲良いし、本当ならこんな夫婦関係が理想なんだろうな……)
内心ほくそ笑みながら素早く朝食を済ませると、懐かしい通学鞄を携え玄関を飛び出る。予想はしていたものの視線の先には若かりし頃のなっちゃんこと相田那津の笑顔があった。
「おはよう、りっちゃん」
「おはよう、なっちゃん、ごめんね待たせちゃって」
「ううん、全然待ってないから……、あれ?」
律佳の顔を見るなり那津は怪訝な表情を浮かべる。
「りっちゃん変わった?」
(えっ!? もしかして一瞬で中学生じゃないって見抜かれた?)
突然の問いかけにドギマギしていると那津は続ける。
「髪型変えた?」
「あっ……、ああ! 髪型ね。うん、ちょっとイメージチェンジ」
(忘れてた。この頃って髪型ストレートでダサかったんだっけ。いつもの癖で分け目と前髪流してしまった)
内心焦りながら受け答えすると那津は笑顔で髪型を褒め通学路を歩き始めた。
懐かしい通学路や見覚えのある駄菓子屋の光景を堪能しつつ律佳は元気よく歩く。
(身体がむっちゃ軽い。若さの素晴らしさを実感してしまうわ。肌のノリも半端ないし。それにしても通学路ってこんなに狭かったっけ? 大人と子供では見ている感覚が全然違うわ)
二十六歳と十五歳の差を心底実感しながら隣をきびきびと歩く那津を見る。昔から分かっていたことだが那津は控え目で大人しく、茶道部で優等生を地で行くタイプだった。一方の自分はというとあまり学業は優秀ではなく、陸上部でスポーツ大好き人間と言える。
文化部の那津と運動部の律佳では一見接点がなさそうな間柄だが、同時期にこの中学に転校してきたという繋がりから仲良くなっていた。
(なっちゃんとはこの後、中学卒業と同時に離れ離れになるんだよね。今はまだなっちゃんの親の転勤を知らないからのほほんとしてられるけど、今年の冬にはそれを告げられる)
当時の悲しい別れを思い出し複雑な気持ちが湧いてくる。それと同時に今から通学するクラスには初恋の相手でもある純平がおり、否が応でも恋心は再燃する。
(教室に入ればあの坂本君がいる。告白はおろか話したこともほとんどない間柄だけど、今の私は二十六年間生きて来たアドバンテージがある。当時は高嶺の花だった坂本君だけど、大人の私ならなんとかなるはず! これまでの経験を活かさないでどうする律佳!)
内心奮起し鼻息の荒い律佳の横顔を那津は不思議そうな表情で見つめていた。