恋は質量保存の法則
第五話
着替えもそぞろに自室のベッドに正面から倒れ込むと律佳は大きな溜め息を吐く。純平から語られた話の内容は大人の律佳でも抱えきれる範疇を遥かに超えていた。与えられた様々な情報にキャパシティの限界を感じながら、語られた内容を振り返る――――
――帰宅途中の公園のベンチに並んで座ると純平は落ち着いた様子で語り始めた。
「僕は百五十年前の江戸時代から今の平成に飛んできたタイムストリッパー。立花さんはいつから?」
明確な回答を得ていないのにも関わらず、さも当たり前のごとく律佳をタイプストリッパーと断言しており面を喰らう。
純平が同じ境遇にあったということも驚きだが、律佳の言動からそれを見抜いた観察力や推理力にも驚嘆する。返答に一瞬躊躇うが相手が明晰な純平のセリフということもあり、律佳は戸惑いがらも観念したように答える。
「……私は十一年先の未来から。って、質量保存の法則からタイムトラベル否定派じゃないの?」
「質量保存の法則からして現状が合致してるからの結論だよ。だって、過去や未来から肉体が飛んで来た訳じゃなくて、記憶だけが飛んで来てるんだからね。地球の原子量は全く変化していない」
(なるほど、確かに筋は通ってる。私という人間が未来から過去へ飛んで二人になった訳じゃないし。あれ? でも、百五十年前って……)
「一つ疑問があるんだけどいいかしら?」
「答えられることならなんなりと」
「私は未来から来たけど、過去の私自身に戻ってきたって感じで大きな変化はないって言うか、同じ人間だからまだ分からないでもない。でも坂本君って百年以上も前の人でしょ? 現代の坂本純平を乗っ取ったってことにならない?」
「それは最初僕も考えたよ。だから、戸籍を遡って祖先を調べてみた。するととんでもないことが分かった。なんだと思う?」
(とんでもないこと……、今回のタイプスリップの対象が基本同一人物だと仮定しても坂本君の場合は古すぎて成り立たない。祖先を調べたってことは過去の祖先に自分が居たってこと? 百五十年前って西暦で千八百六十年くらい……?)
真剣に考え込む律佳を純平は嬉しそうな顔で見つめている。
「年代から考えると江戸の末期、明治維新の頃よね?」
「そうだね」
「明治維新で坂本……、えっ!? もしかして!」
「うん、僕の本名は坂本龍馬。日本史で有名人になってて驚いたよ」
タイムストリッパーだったという件以上の驚愕の事実に律佳は目を丸くする。その反応を純平は予想していたようで含み笑いをしながら続ける。
「僕が慶応三年から現代に来たのは十年前の平成二年、純平が五歳の頃。そこから僕は坂本龍馬と言う名を捨て坂本純平として生きてきた。純平の人生を乗っ取ったって言い方はあながち間違っていないのかもしれない。けど、純粋に純平として生きてきた五年の記憶も持ってるし、龍馬として生きてきた三十一年の記憶も持ってる。そこに、飛んで来て過ごした今までの期間十年を足すと合計で四十六年生きてきたことになる」
「じゃあ貴方は坂本純平であり坂本龍馬でもある、っていうことね」
「そういう事。平成の世を生きている以上、坂本純平と名乗るのが正しいと思って生きてるけど」
事もなげに語るその横顔に、なぜ純平が他の同級生よりもカッコよく大人に見えていたかの理由に突き当たる。
(大人の雰囲気があって当然だった。あの有名な坂本龍馬で他の同級生より三十歳も年上だもの。行動力もリーダーシップも今なら頷ける)
納得しながらもタイムスリップの根本原因を顧みてハッとする。
「あっ、もしかして坂本君……、えっと、坂本さん? どう呼べばいい?」
「今は同級生だから坂本君で大丈夫」
「じゃあ今まで通りで、坂本君。言いにくい質問だけど、タイムスリップの原因って暗殺された近江屋事件じゃない?」
近江屋事件と聞いた瞬間、純平は渋い顔をしそれが図星を指したのだと分かる。
「うん、ご明察。ってことは立花さんも命の危機に晒されてタイムスリップ?」
「そう、私は足摺岬から絶賛転落中」
「足摺岬? またなんで?」
「そ、それは……」
(全てに嫌気がさして自殺しようとしてたなんて絶対言えない)
「ホエールウオッチングに来てて足を滑らせたのよ」
今後の付き合いを考慮し、律佳は至る経緯を観光スポットだったことを利用し隠す。実際に死ぬつもりなどなく、件の男性に声をかけられなければ普通に生きていたはずだという思いもある。
「なるほど、つまりお互いに迫りくる死を間近にし、魂というか記憶だけが過去や未来に飛んだ、と考えられるな」
「私たちの経験から推察するとそうね。で、坂本君は元の時代に戻れる可能性とか方法とかは考えたりした?」
「考えたよ。でも、立花さんの経験と僕の経験を照らし合わせて考えても、僕の場合は無理だと思ってる。今の現状は生命の危機を回避するという意志のもとに成り立っていると考えられるよね? それはつまり、危機に直面している過去や未来に戻ると言う選択肢がないことを意味している。史実通りだと僕は戻ったところで死んでるだろうしね。でも、立花さんの場合は違う」
「なんで? 私の場合も転落中だし意味なさそうだけど」
「それはどうだろうか? 僕の場合は既に過去に起こったこと。対して立花さんはこれから起こる事象だ。つまり、これからの生き方次第で幾らでも未来の修正が出来ると思う。何かの拍子で、いきなりそのシーンに飛ばされたらアウトかもしれないけど、それでもある程度対策を立てることは可能だ」
(対策が可能ってどういう事だろう? これからの人生を変えることはできるけど、転落中のシーンに戻った場合は手の打ちようがないのに)――――
――純平の考えていることが理解できず律佳はベッドで悶々とする。十一年も先の未来のことながら純平の顔つきは真剣で差し迫った状況に居るように感じさせ、律佳自身も脳裏に不安がもたげる。
当初の予定通り純平とお近づきになれたのは収穫だが、同時に処理に困る難題も抱えてしまったのだと改めて実感していた。