運命は硝子の道の先に
「どうして私の名前を、」
「さあ、何故でしょう」
その台詞、表情にはどこか既視感があった。
……そうだ。グラスを拭いた後、私の質問に薄く笑ったまま答えなかった、あのときの店員の台詞だ。ということはつまり、私の問いに答えるつもりはないということか。
だが、その予想に反して、男は随分あっさりと口を割った。
「当然知ってるさ、これを見たからな」
男が懐から取り出したのは、何の変哲もないカード。白いそれには、証明写真を縮小した写真と大学名、所属学部、氏名、生年月日に至るまでプリントされており、私をはっとさせるには十分な材料だった。
「ど、どうしてそれを」
「昨日落ちたんだよ。慌てて部屋を出る、お前の鞄からな」
「……あっ」
思い返せば、昨日の夜、部屋を出た際、乱暴に鞄を持ったような。確か、肩に掛けるとき、中身が激しくぶつかる音がした。そのときに学生証が零れ落ちてしまったのだ。取り出しやすいように、と内ポケットに入れていたのが仇となったのか。
「何か言うことはないのか」
「……あ、ありがとう」
不服ではあるが、一応は恩人だ。私が小さく頭を下げると、男はカードを持ったまま、満足げに笑った。薄い唇の隙間から悪戯っ子のような八重歯が覗く。
諸々あったが、それはそれ。とにかく学生証を返してもらわなければ。いつ撮ったやら分からぬ写真を晒されるのも恥ずかしい。私は男が持つカードに素早く手を伸ばした、が。
「待て」
「……え」
望んだものは遠く、頭上三十センチに掲げられた。私はカードを追って、不格好にも両手を上げた状態で静止させられる。男はタダで返すと思ったかという表情で、黒い瞳をこちらに向けた。
「狸にも芸が出来るんだな」
「なっ、ば、馬鹿にしないでよ!」
「俺も一応、公平な人間関係を維持していたいものでね」
「ちょっ、聞いてるの?」
「貸し借りは無しでいきたいんだわ」
「貸し借りって、……だって昨日は、」
私を抱いたくせに。とは言えず、口ごもる。だが、それが本当なら貸し借りはない、はず。いや、間違いなく男の方に借りがあるはずだ。しかし、男は悪びれもせず、こう言った。
「お前も抵抗しなかったんだから、合意の上だ」