運命は硝子の道の先に

「それで、何で今日はここに?」

「まあ、とある事情で弱みを握られまして」

 彼に、とカウンターの端に目を向けると、そこにはヒロの姿はなかった。それどころか、女性客の方も消えてしまっていた。どれだけの時間をここで過ごしていたのか。
 そこに姿がなくとも、アキには視線と表情で分かったらしく、話の続きを促した。

「あれから五日と経たないうちに、このバーにまた来ることになったというわけです」

「それは、それは……見事にヒロの手の内で踊らされているようで」

「ですよね。やっぱりそうですよね」

 私も扱いやすい女性の一人なのか。だからロクな男に出会わないのか。
 思わず頭を抱え、唸っていると、アキは何も言わずおしぼりを差し出した。生温かいその布はやっぱり心地よくて。冷房が効いて、指先まで冷えてしまっている私には天の救いのようにも感じた。
 最初は野暮ったいと思ったこの店員も、飾らぬ発言がなかなかに良い。話の合間に見せるふとした表情、憂いを湛えた瞳も嫌みが全く無い。

「ヒロのことはともかく、その蓮って人には気を付けた方が良い。このまま関係が進んでも、君が傷つくだけだし、互いに時間を無駄にするだけだ。早いところ区切りをつけた方が良い、彼のためにも、君のためにも」

「……」

 慎重に、丁寧に。硬くなった心をほぐしていくアキの言葉。
 私と蓮の関係に先がないことくらい分かっていた。浮気しては許し、また裏切られては諦めて。堂々巡り、同じことの繰り返し。私たちはそこから抜け出せないまま、ただ腐っていくだけ。だけど────

「でもさ、別れることができたら、こんなに悩まないでしょ」

「はい、それができたら今頃もっと美味しいお酒を飲んでますよ。あっ、もちろん味は美味しいですけど。……誰かに正論を述べられても、事実を突きつけられても、それ通りには動けないというか」

「当たり前だ、それが人間なんだから。寧ろ理屈通りに生きている方がつまらないよ。……だからさ、辛いこと、苦しいことはお酒で流したらいい。もちろん美味しいお酒で。適量に、ね」

「ふふっ、そうですね」

 力強い目元が途端に緩む。私はそのときになって分かった、この人は笑うと幼くなるのだと。瞳の中におどけた少年が住んでいるようで、アキは微笑みで雰囲気を和ませた。薄暗く感じていた店内が一気に華やぐ。ああ、この人であれば信頼できるのかもしれない。
 私は心が軽くなるのを感じた。傾けるグラスも、もう重くはない。それよりも、この人ともっとお酒を飲みたかった。くだらないことを話して、辛いこと、苦しい時間の分、笑っていたかった。
 だが、人生はそんなに上手くはいかない────

「ちょっと飲みすぎじゃないか」

< 19 / 57 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop