運命は硝子の道の先に
「いらっしゃいませ」
薄暗い店内はまだ早い時間だからか比較的空いていて、数人の客はカウンターから離れたテーブル席でタンブラーを傾けていた。学生だろうか。店員に何杯目かのアルコールを注文している。
「お好きな席をどうぞ」
こちらに向かってきた影から、軽く柔らかな声が降ってくる。プレーントゥの黒からすっと立つ脚に短く黒いエプロン、皺一つない白シャツからは人柄が伝わってくるようだ。口元に薄く笑みを湛えながら、その店員は私を見つめていた。きっと客の情報でも頭に巡らせているのだろう。今のところヒット件数はゼロだ。
迷うことなくカウンター前のバースツールに座った私は、ついてきた店員が何かを言う前に、ジントニックを注文した。店員は戸惑いを見せることもなく、カウンターに入っていった。
「何か、ありましたか。お辛ければ言わなくても結構ですが」
慎重な物言い。気遣いをみせつつ、さっとおしぼりを開いて渡す。生暖かいその布一枚に、心の奥まで拭われた気がした。唇から想いが、溢れ出す。
「またです、またなんです。あの人はいつも私より他の人を……」
黙り込んだ私にどうすることもなく、店員はカウンターの奥で、軽快にジントニックを作り始めた。ホールスタッフだけでなく、バーテンダーも兼ねているようだ。氷を入れ、冷やしておいたグラスにジンを入れる。そしてほんの少しのライムとトニックウォーターを注ぎ、かき混ぜればジントニックは完成だ。コースターを敷き、コリンズグラスを音もなく置く仕草は、手慣れたものだった。
「どこかのお店に入られたのですか」
「え?」
「このカジュアルなバーに来るにしては上品な服装です」
上品な服装、なのだろうか。リトル・ブラック・ドレスに身を包むその姿は、学生が気軽に出向くようなバーには不似合いだったのかもしれない。アクセサリーはともかく、シフォンのドレスもエナメルの黒いヒールも今日のために新調したものだった。
「フレンチに、行ったんです」
そこは、情報冊子を広げ、二人で指差し選んだレストランだった。彼が数回行ったことがあり、店員とも知り合いだと聞いて選んだレストランだった。
回想しながら発すると、言葉尻がどうも揺らいでくる。これでは伝わってしまうのではないか。しかし、もう止められそうにはなかった。腹で渦巻くアルコールの熱が、私を止めてはくれなかった。目の前のグラスを一気に傾けると、勢いよく口を拭う。右手にラズベリーローズが滲む。
「……そうですか。このお店は初めてですか」
店員は何事もなかったように、話題を変えた。私はそのときになって、語りかける顔を見据えた。変わらず微笑む口元。鼻筋はつんと通り、瞳は何かを包み込む、柔らかなカーブを描いている。同じくらいの年だろうか。
「いえ、一度だけ」
そう言うと、またグラスを傾け、中身を喉に流し込んだ。店員は気にするふうもなく、どのような酒を飲んだのかと聞き、私はそれに適当に答えた。
「次はいかがいたしましょう」
「じゃあ……」
「私が選んでもよろしいでしょうか」
思いも掛けない提案だった。もう一度その顔を見る。目元の曲線は依然変わりない。
ためらいがちに頷くと、店員は口元を緩ませ、バックバーの方を向いた。