運命は硝子の道の先に
「ヒ、ヒロ」
突然背後から声を掛けられ、振り向くと、そこにはにやけた顔のあの男。いつの間にやら、フロアに回っていたらしい。女性客を送り出していたのだろうか。
「お、何で俺の名前を。そっか、お前だな、アキ」
「別にいいだろ、名前くらい」
「プライバシーのないやつだな。ま、アキなら許してやらなくもない。明日の十時な」
「また泊まりに来るのかよ。勘弁してくれ」
仲の良さを窺わせる会話。入って行けそうもなく、私はお酒をまた一口飲む。しかし、ヒロはその動作を目ざとく見つけ、グラスを手から奪い取った。大学での構図と全く同じだ。
「ちょっと、何するのよ」
「飲み過ぎだって言ってるだろ」
「別にあなたのお金で飲んでるんじゃないから、私の勝手でしょ」
「また店でダウンするつもりか」
「う、うるさいっ」
口を開けば、余計なことばかり。これが仮にもお客様に対する態度だろうか。私も一応女性客なのだ。そこは丁重に扱うところだろう。だというのに、ヒロはグラスを高く掲げたまま、なかなか下ろそうとはしない。それどころか、そのグラスをカウンターテーブルの奥に置くと、私の胸に何かを押し付けてきた。
「何よ、もう」
「それ持って、今日は帰れよ」
「ちょっ、何言って」
「アキ、こいつの勘定出して」
「はいはい」
「ちょっと待って、私はまだ飲むって」
「三二〇〇円です」
「そっちも! 止めてくださいよ」
結局私は半ば強制的に会計を済ませられ、お店を出ることとなった。それならせめて前回分も、と言ったのだが。ヒロは今回の分だけでいい、それより早く帰れよ、と相変わらず乱暴な口ぶり。腹の中で渦巻くアルコールが一気に不味くなった気がした。
「またのお越しをお待ちしております」
百貨店の店員さながらの送り出し。アキの美しいお辞儀を後ろに、私はバーを後にする。
「あのお店には、変な運命しか転がってないのかな」
そう思えるほど疲れていた。だが、不思議と悪い気はしない。この店に行くために、蓮とのデートもなくなったというのに。まあ、最初に約束を取り消してきたのは蓮だったのだが。例の如く残業らしい。そうでなかったら、今夜ここには来なかった。よくよく縁のあるお店だ。おかげでいい人にも知り合えた。
あ、そういえば。
不自然な重みのある右手に目を向ける。あの男が渡してきたのは、五〇〇ミリリットルペットボトル。中にはミネラルウォーターが入っていた。随分冷えているらしい。表面が結露し、指が触れた先から雫が垂れていく。
「癪に障るけど、ちょうど飲みたかったのよね」
キャップを開け、傾けると、液体が一気に喉に流れ込む。冷え切ったそれは温い外気に晒された身体には心地よい。酔いも醒めていきそうだ。半分ほど飲んで、気付く。
「何、これ」
ペットボトルには油性ペンで文字が書かれていた。
「『また飲みに来い』、だなんて」
無礼で、無遠慮で、生意気で。なのに、この優しさは、ずるい。
途中で止めたのは、また酔い潰れないようにするためだったの、とか。一瞬だけお店から消えたのは、この水を取りに行くためだったの、とか。色々考えてしまう、考え過ぎてしまう。
偽りだと知った笑顔と言葉に優しさが含まれているとき、それが本物か偽物か、どうやって見分ければいいのだろう。その難しさに、私はペットボトルをぎゅうと握りしめた。