運命は硝子の道の先に
とはいえ、親友の笑顔ひとつで心配事や疲れが取れる訳ではない。
講義が始まって五分。長ったらしい准教授の無駄話にも飽き、私はこっくりこっくりと船を漕ぎ始めた。行く先には雨の田舎駅、一人の青年がベンチに腰掛けている。
私はその青年の横顔をちらりと見た。小麦色に焼けた肌、鼻筋の通った顔立ち、薄く引かれた唇が優しげな雰囲気を醸し出している。しかし、その瞳に生気はなく、疲れ切っているように見えた。
恋心が湧いた訳ではない。
だが、何となくそばに寄りづらく、私はベンチに荷物を置くと、そこから少し離れて立った。どうせ、あと数分で電車は到着する。それに、青年は反対の路線に向いているベンチに座っていた。数分で、ただの見知らぬ人に戻るのだ。そう思った。
「まもなく、一番線に電車が参ります」
機械的な声とともに、ホームに電車が入る。扉が開くと、私は荷物を持って乗り込んだ。後ろを振り返りもしなかった。いつもと変わらないアナウンス。もうすぐ扉が閉まる。
……ほら、何も起こらない。どうせすれ違うだけの運命だ。
そのときだった、呼び声が聞こえたのは。
「ちょっと、傘忘れて、」
「まもなく発車いたします」
「えっ……」
気が付けば、頰に感じる温かさ。ネイビーとシルバーの縞が目に入る。これは、ネクタイだ。それも青年が身に付けていたもの。じゃあ、この温もりは────
「傘、忘れてたよ。ベンチの上に」
「……本当だ」
「おっちょこちょいなんだね」
青年は目を細めて笑う。目の端に少しの笑い皺。よく笑う人なのかもしれない。
「本当にすみません。あ、電車」
「ああ、反対側に乗っちゃったね」
「すみません。次の電車で……、でも三十分に一本だから。それに反対って特急ですよね」
「別に構わないよ、ちょうど休みたかったところなんだ。寧ろ、ありがとう」
ありがとう、だなんて。私のせいで電車を逃した上に時間を無駄にしてしまうのに。
私は微笑み続ける青年に罪悪感を覚えた。同時に、ほんの少しのときめきも。この人は自分の都合とか他人からの評価とか関係なしに行動を起こす人なのだ。この人はただ誰かのために────
「一花、寝すぎ」
「……へっ」
突然、肩に衝撃を感じた。横を見れば、結衣が笑い半分でこちらを見ている。どうやら私は長い間眠っていたらしい。頬杖をついた後の手の甲が痛い。
「どんな夢見たら、そんな幸せそうな顔で眠れるの」
鋭い目付きで言いながらも、唇の端が笑っている。面白いものを見たと思っているのだろう。
幸せそう、か。どんな顔だったのだろう。顔が緩んでいたのだろうか。寝言でも言ってしまっただろうか。居眠りの後の目覚めはちょっと怖い。
しかし、それがどんな顔であったとしても、もうできない表情であることを私は知っていた。