運命は硝子の道の先に
3 着信は動揺を誘う
二度目は胸がときめかないと誰が言ったのか。ヒロのベッドを前に、私は頰に思わず手を当てた。
雨は止むことなく降り続け、鉄骨造のアパートの屋根を激しく打つ。足早に屋内に入ると、濡れに濡れた傘を折りたたみ、フローリングにずぶ濡れの足のまま上がったのだが。
狭い部屋とあって、玄関からすぐ奥の部屋が見えた。急いで出勤したのか、開いたままのドアから見えたのは、ほんの数週間前に見たベッド。見覚えのある黒いチェストに、クマのぬいぐるみ。視界に映る全てのものが、私には生々しく感じられた。
「やっぱり、来るんじゃなかった」
そう思っても、もう遅い。今から引き返しても終電には間に合わない。何より、ヒロに何と言うのだ。貴方との思い出が頭をよぎって、平常心じゃいられないので帰ります、とか。言ったら、またからかわれそうなものだ。
諦めて、短い廊下を歩く。湿った足がぺたぺたと、彼の生活空間に跡を残していく。それすらも気が引けてしまうのは、やはりあの夜のことが頭から離れないから。でも、私も大人。割り切らなければならない。一度と言わず二度までも、ヒロには助けてもらっているのだから。
でも、それとこれとは別でしょ。そう叫ぶ自分の心を押さえて、私はおもむろにぬいぐるみに手を伸ばした。
「それにしても可愛いクマ」
見た目よりも硬い生地を撫でながら、床に鞄を置く。なんといっても首に巻かれたリボンがこの部屋の雰囲気からほど遠いもので、本当に彼の持ち物かと疑うくらい可愛らしいものだった。それだけにそこに書かれた文字はその疑いをより加速させた。
「ん、これ……」
『From H To Y』
それは流れるような美しい筆記体で書かれた文字だった。
「たぶん、このイニシャルはヒロだから。なら、ヒロが誰かに贈ったってことになるよね」
じゃあ、どうしてヒロの元にこのぬいぐるみがあるのだろう。普通であれば、贈った誰かのところに置かれ、大切にされているはずではないか。わざわざリボンに書いてあることから推察するに、これはプレゼント、それも特別な誰かに贈られたものではないのか。
様々な憶測が浮かぶ中で、間違いないと確信できる答えが一つだけあった。
これは女性に贈られたものだ、と────
もしかしたら外れているかもしれない。しかし、叫んでいるのだ、女の直感、第六感が。
ぬいぐるみを元の場所に戻す。これ以上、触れる訳にはいかなかった。途端に黒く輝く、つぶらな瞳がこちらを向いているかのように見えた。それはクマのではない、誰かの瞳のようで。私は恐ろしくなってしまったのだ。
だがその瞬間、鞄がけたたましい音とともに震え出した。私は背筋がぞっと寒くなるのを感じた。