運命は硝子の道の先に
「え……」
一瞬自分が何を言われたのか理解できなかった。そして、グラスから頰へと手をやる。指先に触れた水分。それはグラスについていたものではなく、瞳から出たひとしずくだった。
私はいつの間にか泣いていたのだ。
「宜しければ、これを」
店員はカウンターの向こうから白い布を差し出す。四つ折りに畳まれたハンカチは使うのも勿体無いほど綺麗だった。小さく頭を下げてから、私はそれを受け取った。
しばらく目元を押さえ、何も言わない私に、店員は穏やかに語り始めた。
「この店の名前は『fato』と言います。何でもフランス語で運命という意味らしく、オーナーが名付けたそうです。ここに来るお客様との出会いはまさに運命です。来店理由も時間も人それぞれですから。それだけでなく、バーテンダー同士の出会いも運命、お客様とお酒との出会いもまた運命なんですよね」
「運命……」
「そう、運命。巡り合わせ、とも言うでしょう。超自然的なものの支配によって私たちは結び付けられていく。ところが、どうでしょう。この店の名前に従うなら、ここには運命がごろごろ転がっているわけですよ。あのテーブルにも、あのスツールにも、もちろん私たちの間にも」
店員は声に合わせて様々な場所を指し示す。数人の客が騒ぐテーブル席。店員にお酒を頼む、入店したばかりの女性。そして私を見つめ、にこりと微笑んだ。ほんの少し、胸が高鳴る。きっと飲みすぎたせいだろう。
ここにも、あそこにも、運命が転がっている。そう思うと、運命というものが随分軽いものに思えた。もしかしたら、私たちはそこらじゅうに空いた運命という名の落とし穴にはまっているだけかもしれない。
「……運命なんて信じるものじゃありませんね」
「そうかもしれません。でも、私たちは信じてしまう。いえ、信じたくなるのです。今目の前に起きたことを、目の前にいる人を運命だと。日常に舞い降りた、特別だと」
日常に舞い降りた特別。そうかもしれない。
毎日同じことの繰り返し。代わり映えのない日々の中に埋もれ、変わっていくことに恐れ。だから、目の前のものを運命と言い、意味付けをして、少しの幸福感に全力で浸ろうとする。それが、みなが信じる運命の正体なのかもしれない。
「でも、運命なんか信じたせいでこんな思いをするなら、私はもう」
「もう、信じません、とでも言いますか」
「……はい。運命なんて信じませんよ、もう」
「そうですか」
ハンカチを握り締めて答える。店員は唇に笑みを湛えたまま、視線を落とした。
「それは、残念です」