運命は硝子の道の先に

「三十七度八分。少し熱があるね」

 蓮は体温計の電源を切ると、ソファに横になる私の頭を撫でた。心配そうに、愛おしそうに。目の上に掛かっていた髪がはらりと落ちる。
 髪は既に乾いている。蓮がドライヤーまでかけてくれたのだ。

「本当に熱があったんだ」

「しばらく休むことだね。ま、明日は休みだから、ゆっくり寝な」

「うん、ごめんね」

 頭に置いていた手を頰に当てる蓮。
 節くれだった、大きな手。
 蓮は自分の荒れた手のひらがあまり好きではないらしい。だが、私にはそれがとても綺麗に見える。有りがちな言葉だが、働き者の良い手だと思う。蓮はその手が示す通り、苦労してそこそこ名の売れた企業に入社し、毎日きつい仕事をこなしている。その苦労を思うと、自分の生活がちっぽけで無意味なものに見えてしまうのだ。

「蓮」

「どうした、何か欲しいのか」

「ううん。……ありがとう、蓮」

 温かくて、安心できる手に頬を包まれて。それは自然と出た言葉だった。
 本当はお礼なんて言えない、言ってはいけない相手だけれども。

「遅いよ、一花」

「え?」

「今日、ごめんしか言ってなかったよ。こういうときはありがとうって言われたい。まあ、そんなこと言える立場ではないけどさ」

「……私もだよ」

「え?」

「……ううん」

 ごめん。その一言がこんなに重く感じられたのは初めてだ。
 ありがとう。この言葉がこんなにも喉に引っ掛かるのは初めてだ。

 私もそんなこと言える立場じゃないんだよ。そんなこと、口が裂けても言えなかった。

 ────言えない? どうして?
 言ってしまえば終わりにできるのに。

 でも言えない。この手を離すのは、まだ怖い。

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