エリート上司の甘い誘惑
時計を見ても、何も反応がないのは、これが部長のものではないからだろうか。
だから、何も言わないんだろうか。
無言で歩く彼に、今何かを問える空気ではなく。
だけど、帰さないと言ってくれたことに動揺と期待が入り雑じって言葉が見つからなかった。
ただ、心臓だけが高鳴って痛いほどだ。
ひゅるる、と冷たい風が吹いて、肩を竦めて縮こまる。
涙が渇いた痕が、冷たくてぴりりと痛い。
部長がまた一度足を止めて、私を振り返った。
「……」
くるる。と。解けて余り意味を成していなかったマフラーを、しっかりと私の首に巻き付ける。
無表情が、少し怖い。
機嫌悪い、怒ってる、呆れられた、困らせてる?
どれが正解かわからないし、全部が正解なのかもしれない。
ずず、と鼻を鳴らしてごめんなさいと言おうとした。
けど、すぐに彼はまた私の手を引き歩き出す。
その周辺に並ぶ店舗に、私は一つの心辺りを覚えて胸がざわついた。
この辺りは知ってる。
滅多にはここまで歩いて来ないけど、隣駅までずっと飲食店やアパレル、さまざまな店舗が並んでいて、何度かショッピングで望美と歩いたことがある。
だがそれ以外にも、確か。
あの日は、反対側からこちらへ向かって歩いて来て、見つけたのだ、あのBarを。
会社の方から歩いても、それほど遠くない場所だったのか。
確か、石畳のステップのある、小さな出入り口。
「…………部長、」
部長の足は、その店の目の前で止まった。
同時に鼓動が激しくなり、私は信じられない思いで彼を見上げた。
右手で左手首の腕時計を擦る。
そんな私の仕草を、部長がちらりと横目で見た。
「部長、ここっ……」
声が震えていた。
じわりと滲む涙の気配を堪えて、唇そのものが震えていたから。