MAS-S~四角いソシオパス~
第一話

 三月一日、木曜日、午後十一時。竜崎明(りゅうざきあきら)は、遠のく意識の中でヴェンガーの腕時計に目をやる。
(なんだ、まだ十一時か。なんでこんなにも時が経つのは遅いんだ。酒の量が少ないのか?)
 おぼつかない様子で明はグラスに手をもっていく。よく見るまでもなくその中は空になっており舌打ちする。
「マスター、おかわり。ストレートね」
 カウンター越しに注文を受けるマスターこと榊健介(さかきけんすけ)は溜め息交じりに切り出す。
「お客さん、もうその辺にしときな。これ以上は身体に毒だ」
「ふふ、知ってますよ~、毒さ、猛毒さ。コレは人類が発明した最高傑作! その名も毒スコッチだ! ふふふ、どう? マスター、どう、このギャグ? 良くない?」
 意味不明な絡みをされ健介は呆然とせざるを得ない。健介が経営するBAR『白夢(ハクム)』の作りはレトロ風となっており、落ち着いて飲むには打ってつけの隠れ家だ。
 何より、今年で喜寿となる健介の雰囲気が店内と絶妙にマッチしており、一つの風景としても最高の味わいを出している。
 人生経験豊富で他人辺りの良い健介とのおしゃべりが目当てで来店するOLもおり、ディナー後にちょっと寄るのが静かなブームとなっていた。
 明がこの店に来るようになったのは三ヶ月前。正月休みも終わり、世間の人々が仕事始めや始業式と慌しく動き始める一月九日のことだ。
 しかし、明にとって仕事始めは意味の無いものでしかない。何せ、先月の十二月いっぱいで勤めていた会社を辞めているからだ。それ以降は常に酒びたりの日々が続き、様々な店を点々と飲み歩き憂さと心のモヤモヤを紛らわせていた。
「今日はこれでラストだよ」
 健介は頼まれたストレートではなく、限りなく水で薄めたスコッチを出す。自暴自棄になっている明への健介なりの配慮と言える。
「ラジャーです! 隊長!」
 明は変な敬礼をした後、グラスに手を伸ばす。店内には現在、明と健介の二人しか居ない。雨降りも手伝ってか今日の客足は静かなものだ。
 白夢の閉店時刻は午前零時と飲み屋としては早い。この時間からの来客が見込めないと判断した健介は、明の相手を適当にしつつ掃除と片付けを始める。
 ところが、健介の思惑に反して一人の男性がドアを開ける。紺色のコートにベレー帽。黒のスーツに花柄のネクタイと、いかにも怪しい格好をした客だ。
 三十代後半、サラリーマンではない、左手から独身とまで見抜く。入ってきた瞬間、健介はいつもの癖で男を観察する。
「ああ~、もしかして、もう閉店でしたか?」
 男は帽子を取りつつ話し掛ける。人の良さそうな優しい顔つきをしている。
「はい、申し訳ないんですがもう閉店間近なんです。しかし、こんな雨の中いらしてくれたお客様を帰すのもまたおかしなもの。一杯くらいなら構いませんよ」
「いや~、助かります。ありがとうマスター」
 そう言うと男は明の右隣の席へと座り注文をする。
「じゃあ、ウイスキーをお願いします」
「かしこまりました」
 健介は慣れた手つきでグラスとボトルを手にする。注文の声で男に気がついた明は、マジマジと見つめつつ水割りを傾ける。店内には健介が作るウイスキーの音が響き、BGMと相まって心地良いメロディを奏でる。
「お待たせしました、ウイスキーです」
「ありがとう」
 男は一口飲むと満足そうに息を吐く。一方、明はカウンターにうつ伏せになりピクリとも動かない。そんな明を見て、男は話し掛ける。
「随分と飲んでるみたいですね」
 問いかけに明は全く反応しない。
「ちょっと、お客さん、大丈夫かね?」
 様子のおかしい明に、さしもの健介も焦って声をかける、すると……
「わははははは! 騙されてやんの~起きてますよ~だ!」
 と、いきなり笑い出し手を叩く。健介はやれやれと言ったふうに両手を上げ、男も苦笑いして話し掛ける。
「お兄さん、本当に大丈夫かい? 冗談抜きで結構飲んでるようだけど」
「超大丈夫っす!」
 例によって何故か変な敬礼をする。
「そうか、ならいいんだが。その様子だと何か良いことでもあったのかい?」
 男はウイスキーをちびちびやりながら問う。
「へへへ~良い事? まっっっったく違いますよ~、その逆ッス! とてつもなく悪い事だらけのオンパレード! まさに世界の不運は我に集中せりー! ってね」
「ほう。して、何があったんですか?」
「ふふ、聞きたい? 聞きたい?」
「ええ、是非」
「よーし! じゃあ、ワタシク竜崎明、波乱万丈の人生劇をここに開演致しまーす! はい、みんな拍手~!」
 テンションのおかしい明を見て健介は大きな溜め息を吐き、男は興味深げに見つめていた。


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