栄光よ明日へ
鼻歌を
ヘッドライトに照らされて。私は、通りかかった運転手に中指立てたけど、彼は気付かずに、通り過ぎて行った。きっと、家に帰ったら幸せな家庭の中で、娘や奥さんにキスしたりするのだろう。それとも、胸の大きな商売女とファックするのかもしれない。どっちでも構わない。どうだっていい。今夜はいつもより湿っぽくて、皮のジャケット越しでも冷気が素肌へ通るみたいだった。もう涙は流れやしない。私は、大好きなロックバンド、ブルックボーイズの〝栄光は明日へ〟を口ずさんだ。
グッデイ 心配ごとなんてなくしちまおう
みんな明日をしんじてる
栄光は明日へ
それは確かに 君は奇跡の一人だから
口から凍った息が吹き出す。鼻をすすって、空を見上げた。綺麗すぎる星空が残酷に輝いている。私はもうどこにも行く場所がない。何もかも失ってしまった。ジャンも、シェリーも。私は銃を手に取って、心臓へ向けた。それから――。
1
今日も私は死んだように目覚めた。何もない部屋、何でもない格好。私はベッドから起き上がると、ボサボサの髪を掻きながら、すぐ傍の洗面台まで気だるげに歩いて、鏡をのぞきこんだ。つまらない顔。いつものように、顔を洗って歯磨きをする。それから、私は再びベッドの上に座って壁にもたれかかると、サイドテーブルに置いてある安タバコを取って吸った。白い煙が天井に舞い上がっていく様子をぼうっと眺めていた。
「しにたい」
また、呟く。毎日朝起きると、私は性懲りもなくこんな事を口から出す。そして、灰皿にタバコを戻すと、再び洗面台へ近づいた。歯ブラシの横のカミソリへ手をやると、手首にそっと当てた。冷たい幽かな感触が手首から脳髄に伝わっていく。私は何とも思わずに、皮膚に沿ってカミソリを深く撫でた。痛みは感じない。古跡がまた開き、割れ目から赤い川が流れ出す。はじめて、私は泣きそうになる。だけど、実際に涙は流さない。私の涙はこの血が代わりとなってくれているからだ。
私は、タンスからはみ出たTシャツや、ジーンズを適当に着ると、退屈だからシェリーの家に行こうと考えて、外に出る事にした。ハンガーに掛けた革ジャンを羽織り、ブーツを履いて、私は寒空の下を踏み出した。
シェリーの家までは数分もかからない。何軒か家を挟んだ場所にある。それに、迷うこともない。何故なら、シェリーの家は、この辺りでは格別に金持ちらしい外観をしているからだ。私の家とは違って、手入れがきちんと行き届いているし、玄関も青々と輝いている。
私は歩きながら、シェリーの家を目指した。すぐに、白い大きな屋根が見えてきた。
玄関に続く道を通り、チャイムを鳴らす。しかし、返ってきたのは犬の鳴き声だった。その鳴き声の後、今度は聞き慣れた声が聞こえてきた。
「もう、ダメでしょ。吠えたりしちゃ。知らない人だったら」
扉が開き、典型的ティーンズの風貌をした少女が出てくると、私の方を見て目を丸めた。
「アン!来たの?随分いきなりじゃない。びっくりしたわ」
「たまたま、通りかかったんだよ。親は?」
「今日はたまたまいないの。久々に父が休暇をもらったから、二人で旅行だって。こら、ジョン!アンに会えて嬉しいからって、落ち着きなさい」
ジョンはワンワンと大声で吠えながら、私の足元で忙しそうに尻尾を振っていた。
「いいよ、別に。そっか、両親いないんだね」
「うん。そう……だから、家に入ってもいいよ」
「わかった。ごめん、いきなり押しかけてきて」
「謝らないで。私もアンに会いたかったから」
シェリーは、恥ずかしそうに目をそらしながら言った。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく邪魔させてもらうよ」
「どうぞ。ちょっと部屋汚いけど、気にしないでね」
私はシェリーに招かれるまま、家の中へ入っていった。シェリーの家は、全然汚くなどなかった。むしろ、いつも散らかった部屋に住む私にとって、綺麗すぎて居心地が悪いくらいだ。
「座ってて、今お茶とお菓子を持ってくるわね」
リビングに通され、真っ白で高級そうなソファーに座る。シェリーがキッチンへ行くのを見届けた後、部屋の辺りを見渡してみた。引き出しの上にはたくさんの写真が飾られていて、どの写真にもシェリーが写っている。シェリーの傍にはいつも、優しそうな女の人と、男の人が寄り添っている。幸せそうだ。私には、届かない場所に、いるような気がする。
「はい、アン。上着、脱ぐ?」
シェリーが戻ってくると、テーブルの上にクッキーと湯気のたったティーカップの乗ったお盆を置きながら、私の着ている上着へ顔を向け尋ねた。私は頷くと、無言で上着を脱いだ。
「美味しそうだね。いただきます」
柔らかい花の香りが鼻腔を通る。
シェリーは私の隣へ小さく座ると、私の肩に寄りかかった。
「アンに会えるだけで、嬉しい」
シェリーの赤茶の髪からは、シャンプーの香りがかおってきた。私も、シェリーの頭を撫でた。
「親が厳しいから、あまり会えないしね」
「バレたら怒るわよ。うちの親、偏見がすごくてね」
「レズビアンだとわかったら?」
「逮捕されるかも」
シェリーは冗談っぽく笑った。
「あるいは銃で射殺されるかもね」
私は、シェリーの父親を想像しながら言った。
「いくら警察だからって、プライベートでそんなに銃をぶちかまさないわよ」
「大事な娘なら、何するか分からないよ」
「そうなったら、私もアンと一緒に死ぬ」
シェリーは、嬉しそうに私に抱きついてきた。
私は右手をテーブルの上のカップに伸ばした。すると、シェリーはその腕を掴んだ。
「また、切ったの?」
シェリーの顔から、笑顔が消えた。
「ああ、だから何?」
「切らないって、約束したのに」
「何だか、虚しくて」
私がそう言って、シェリーを見ると、シェリーは今にも泣きそうな顔をしていた。私は、もう会話するのも億劫になって、ここから居なくなりたかった。だが、シェリーは私の腕を掴んだまま「どうして切るの。もうこんな事しないって約束して」そう言った。私は腕の力を抜いて俯いた。またあの感覚が脳内を支配してきた。
「うん、分かったよ」
私は、力なく返事をする。
「もう、帰るわ」
私はソファから身を離して立ち上がった。そんな私を、シェリーは慌てて引き留めようとする。
「待って、まだ来たばかりじゃない」
「悪いけど、何だか疲れた」
「ごめん」
「シェリーって、すぐ謝るね」
シェリーは、私の腕を離した。もう玄関の時の二人はいなかった。
「ごめん」
「だから、謝らなくていいって」
「私は、アンの為を思って」
シェリーは必至に訴えようと声を大きくした。だけど、私の心には何も響かない。
「私はね」
何か言いかけようとした。だけど、言うのをやめた。シェリーは、黙り込んでしまった。
「シェリーが辛くなるだけなら、私といるのよした方がいいよ」
私はシェリーにそう言った。言った後、悲しくなって目頭が熱くなった。シェリーの方は、ついに泣き出してしまった。
「どうして?一緒にいたいのに、何でそんな事言うの」
私は、シェリーを泣かしてしまった自分に酷く罪悪感を覚えて、イライラをぶつけてしまった。
「シェリーはいつも私を悪者扱いする」
違う。この言葉じゃなかったはずなのに、もう感情のコントロールが効かなくなって、言いたい言葉は出てこない。
「怒ってるの?」
シェリーは私に聞いてきた。私は、会話が噛み合わない事に苛立ち、傍にあったジャケットを引き寄せて羽織ると、「もういい」と一言呟いて、玄関まで行った。シェリーは懸命に私の後ろをついてきた。
「ごめん、私アンとはあまり喧嘩したくないの」
シェリーは、涙の跡を指で拭った。私は扉を開けて、振り向いた。
「私は、ただ、アンタとキスがしたかっただけなのに」
最後に、ようやく言った言葉と共に、扉を閉めた。頭の中では、混乱が渦巻いていてどうしようもなかった。私は無表情で、涙を流した。シェリーにはもう会いたくなかった。
グッデイ 心配ごとなんてなくしちまおう
みんな明日をしんじてる
栄光は明日へ
それは確かに 君は奇跡の一人だから
口から凍った息が吹き出す。鼻をすすって、空を見上げた。綺麗すぎる星空が残酷に輝いている。私はもうどこにも行く場所がない。何もかも失ってしまった。ジャンも、シェリーも。私は銃を手に取って、心臓へ向けた。それから――。
1
今日も私は死んだように目覚めた。何もない部屋、何でもない格好。私はベッドから起き上がると、ボサボサの髪を掻きながら、すぐ傍の洗面台まで気だるげに歩いて、鏡をのぞきこんだ。つまらない顔。いつものように、顔を洗って歯磨きをする。それから、私は再びベッドの上に座って壁にもたれかかると、サイドテーブルに置いてある安タバコを取って吸った。白い煙が天井に舞い上がっていく様子をぼうっと眺めていた。
「しにたい」
また、呟く。毎日朝起きると、私は性懲りもなくこんな事を口から出す。そして、灰皿にタバコを戻すと、再び洗面台へ近づいた。歯ブラシの横のカミソリへ手をやると、手首にそっと当てた。冷たい幽かな感触が手首から脳髄に伝わっていく。私は何とも思わずに、皮膚に沿ってカミソリを深く撫でた。痛みは感じない。古跡がまた開き、割れ目から赤い川が流れ出す。はじめて、私は泣きそうになる。だけど、実際に涙は流さない。私の涙はこの血が代わりとなってくれているからだ。
私は、タンスからはみ出たTシャツや、ジーンズを適当に着ると、退屈だからシェリーの家に行こうと考えて、外に出る事にした。ハンガーに掛けた革ジャンを羽織り、ブーツを履いて、私は寒空の下を踏み出した。
シェリーの家までは数分もかからない。何軒か家を挟んだ場所にある。それに、迷うこともない。何故なら、シェリーの家は、この辺りでは格別に金持ちらしい外観をしているからだ。私の家とは違って、手入れがきちんと行き届いているし、玄関も青々と輝いている。
私は歩きながら、シェリーの家を目指した。すぐに、白い大きな屋根が見えてきた。
玄関に続く道を通り、チャイムを鳴らす。しかし、返ってきたのは犬の鳴き声だった。その鳴き声の後、今度は聞き慣れた声が聞こえてきた。
「もう、ダメでしょ。吠えたりしちゃ。知らない人だったら」
扉が開き、典型的ティーンズの風貌をした少女が出てくると、私の方を見て目を丸めた。
「アン!来たの?随分いきなりじゃない。びっくりしたわ」
「たまたま、通りかかったんだよ。親は?」
「今日はたまたまいないの。久々に父が休暇をもらったから、二人で旅行だって。こら、ジョン!アンに会えて嬉しいからって、落ち着きなさい」
ジョンはワンワンと大声で吠えながら、私の足元で忙しそうに尻尾を振っていた。
「いいよ、別に。そっか、両親いないんだね」
「うん。そう……だから、家に入ってもいいよ」
「わかった。ごめん、いきなり押しかけてきて」
「謝らないで。私もアンに会いたかったから」
シェリーは、恥ずかしそうに目をそらしながら言った。
「ありがとう。じゃあ、遠慮なく邪魔させてもらうよ」
「どうぞ。ちょっと部屋汚いけど、気にしないでね」
私はシェリーに招かれるまま、家の中へ入っていった。シェリーの家は、全然汚くなどなかった。むしろ、いつも散らかった部屋に住む私にとって、綺麗すぎて居心地が悪いくらいだ。
「座ってて、今お茶とお菓子を持ってくるわね」
リビングに通され、真っ白で高級そうなソファーに座る。シェリーがキッチンへ行くのを見届けた後、部屋の辺りを見渡してみた。引き出しの上にはたくさんの写真が飾られていて、どの写真にもシェリーが写っている。シェリーの傍にはいつも、優しそうな女の人と、男の人が寄り添っている。幸せそうだ。私には、届かない場所に、いるような気がする。
「はい、アン。上着、脱ぐ?」
シェリーが戻ってくると、テーブルの上にクッキーと湯気のたったティーカップの乗ったお盆を置きながら、私の着ている上着へ顔を向け尋ねた。私は頷くと、無言で上着を脱いだ。
「美味しそうだね。いただきます」
柔らかい花の香りが鼻腔を通る。
シェリーは私の隣へ小さく座ると、私の肩に寄りかかった。
「アンに会えるだけで、嬉しい」
シェリーの赤茶の髪からは、シャンプーの香りがかおってきた。私も、シェリーの頭を撫でた。
「親が厳しいから、あまり会えないしね」
「バレたら怒るわよ。うちの親、偏見がすごくてね」
「レズビアンだとわかったら?」
「逮捕されるかも」
シェリーは冗談っぽく笑った。
「あるいは銃で射殺されるかもね」
私は、シェリーの父親を想像しながら言った。
「いくら警察だからって、プライベートでそんなに銃をぶちかまさないわよ」
「大事な娘なら、何するか分からないよ」
「そうなったら、私もアンと一緒に死ぬ」
シェリーは、嬉しそうに私に抱きついてきた。
私は右手をテーブルの上のカップに伸ばした。すると、シェリーはその腕を掴んだ。
「また、切ったの?」
シェリーの顔から、笑顔が消えた。
「ああ、だから何?」
「切らないって、約束したのに」
「何だか、虚しくて」
私がそう言って、シェリーを見ると、シェリーは今にも泣きそうな顔をしていた。私は、もう会話するのも億劫になって、ここから居なくなりたかった。だが、シェリーは私の腕を掴んだまま「どうして切るの。もうこんな事しないって約束して」そう言った。私は腕の力を抜いて俯いた。またあの感覚が脳内を支配してきた。
「うん、分かったよ」
私は、力なく返事をする。
「もう、帰るわ」
私はソファから身を離して立ち上がった。そんな私を、シェリーは慌てて引き留めようとする。
「待って、まだ来たばかりじゃない」
「悪いけど、何だか疲れた」
「ごめん」
「シェリーって、すぐ謝るね」
シェリーは、私の腕を離した。もう玄関の時の二人はいなかった。
「ごめん」
「だから、謝らなくていいって」
「私は、アンの為を思って」
シェリーは必至に訴えようと声を大きくした。だけど、私の心には何も響かない。
「私はね」
何か言いかけようとした。だけど、言うのをやめた。シェリーは、黙り込んでしまった。
「シェリーが辛くなるだけなら、私といるのよした方がいいよ」
私はシェリーにそう言った。言った後、悲しくなって目頭が熱くなった。シェリーの方は、ついに泣き出してしまった。
「どうして?一緒にいたいのに、何でそんな事言うの」
私は、シェリーを泣かしてしまった自分に酷く罪悪感を覚えて、イライラをぶつけてしまった。
「シェリーはいつも私を悪者扱いする」
違う。この言葉じゃなかったはずなのに、もう感情のコントロールが効かなくなって、言いたい言葉は出てこない。
「怒ってるの?」
シェリーは私に聞いてきた。私は、会話が噛み合わない事に苛立ち、傍にあったジャケットを引き寄せて羽織ると、「もういい」と一言呟いて、玄関まで行った。シェリーは懸命に私の後ろをついてきた。
「ごめん、私アンとはあまり喧嘩したくないの」
シェリーは、涙の跡を指で拭った。私は扉を開けて、振り向いた。
「私は、ただ、アンタとキスがしたかっただけなのに」
最後に、ようやく言った言葉と共に、扉を閉めた。頭の中では、混乱が渦巻いていてどうしようもなかった。私は無表情で、涙を流した。シェリーにはもう会いたくなかった。
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