ドストライクの男
あのすぐ後、光一郎がクシュンとくしゃみをしたので、小鳥はすぐに部屋を出た。
その後、小鳥は上からの命令で、5101号室に週一回掃除に入っている。
だが、彼と話すことはおろか、姿さえ見ることはなかった。
だから小鳥は光一郎が何者か知らなかった。
「作家。ならホテルに缶詰めとか有り得るのか……」
何となく納得すると、溜まったお湯の中に柚子の香りのするバスボールを入れ、オーディオのスイッチを押す。
「何ていう曲だったかしら……」
聞き覚えのあるハープの調べが流れ出す。
小鳥はゆったりと湯船に横たわると、目を瞑り、天国に一番近い楽器と云われる心地良い音に耳を傾ける。
「私をおバカさん、と言ったのは彼が初めてだ」
いつも天才と言われ、何処にいても特別扱いされた。
助手が教授を超える……恩ある人の顔を潰した。
あれは最低だった。
父の命を受け日本に帰国したが、本当は逃げてきたのだ、あの居心地の悪い場所から。
おバカさんかぁ、何となくくすぐったい言葉だ。
黒羽光一郎、本当に不思議な人だ。
天へ導くような癒しの音色を聞きながら、彼を思い出す小鳥の口角が、ゆっくり上がっていく。