メジャースプーンをあげよう

「いつきさん、コートを彼に」
「………あっ? はい」

 伸ばされた手で、我に返る。
 いつの間にか後ろに立っていた黒いシャツをきっちり着た男性店員が、綺麗な笑顔を浮かべて私のコートを受け取ってくれた。
 コートを預かってくれるバーなんて初めてだ。
 全体的に照明を落とした店内。向かって右側に長く延びるカウンターには、3人ほど座っている。
 狭くもなく広くもない通路を挟んだ反対にはテーブル席が点在していて、奥に進むとまだ席があるみたいだけどここからは見えない。
 派手な音楽も華美な装飾もない、本当に、本当に上質なバーだってことがわかった。

「奥へどうぞ」
「ありがとう」

 私が呆然としている間にも睦月さんは店員と言葉を交わし、「いつきさん」と少し笑って手を取ってくれる。
 するりと指を絡められることに実はまだ慣れてない。

(嬉しいんだけどやたら恥ずかしい)

 これまでしたことのある恋人繋ぎは、ただ指を絡めるだけのもの。
 睦月さんは違う。
 指を絡めてからも手の甲や爪の先を撫でてきたりして、なんかこう…‥

(普段から想像できないくらいやらしいから)

 妙な意識をしてしまう。
 そのくせキッチリ家に帰してくれるし、キスだってまだしてない。
 アンバランスすぎて変な気持ちになりそうだ。

「いつきさん。どうぞ座ってください」

 意識が手に集中していて手しか見てなかった。
 お礼を言おうと顔を上げると―――

「っ、わ………」
「綺麗でしょう」

 言葉を失った。
 ふたりしか座れないカウンターが、窓に向かって設置されている。
 両側は壁とまではいかないけど隣との区切りになっていて、個室じゃないのに個室みたいだ。
 そしてその窓の外には、54階から望む夜景が広がっている。


< 110 / 139 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop