心理戦の100万円アプリ
10分程で5杯も飲み、顔を真っ赤にしたケンジは真ん中に座る彩子の肩に肘を置く。
「何よ」
「彩子、お前にハートブレイクだ。俺様を口説け!」
「拒否権を使うわ」
「んげ!」
彩子はケンジの肘を払いのけると、赤い眼鏡を鼻の先までズレた奥からとろんとした目つきでこっちを見つめる。
「優くん、ハートブレイクしようか」
「酔いすぎだぞ彩子、でも楽しいな、お題は何?」
「わからない? 鈍感ね」
後ろからムッとした顔のケンジがビールをゴクンと飲み干すと、彩子の背中を叩く。
「彩子、拒否権は一回だからな! もう一回ハートブレイク」
チラリと見た彩子は一言でケンジを黙らした。
「リーブ」
「面白い友達だねえ、お待ち! 自慢の焼き鳥よお! 最後かもしれねえから味を覚えててくれよ」
「最後って?」
固まっていたケンジは大将の顔を見る。
「今月で店たたむんだよ、凄い美味いのに勿体無い。うん、やっぱり最高の味だよ大将」
考えると、悲しくなり焼き鳥一本をじっくり食べる。
「3人の打ち上げ最初の思い出の焼き鳥なのに……。大将! 俺それ全部食う!」
11本まとめて掴んだケンジは次々に噛み付いて行く。
「ほんと美味いよ! 大将、追加!」
「彩子の分まで食うなよー、また頼べばいいけどさ。同じのでいいか? 彩子」
店内をゆっくり見渡した彩子はスーツの内ポケットから名刺ケースを出し、メガネをしっかりかけ直す。
「大将さん、あなたをこれから面接をします」
「彩子酔っ払いすぎだぞ、やめろ」
止めようとする手を思わず引いた、あの時のハートブレイクの目、マジだ。
「兄さん、このお嬢さん誰?」
「会社を経営してる、歳はレディに聞かないで。オススメの串は何?」
「皮と、砂ずりと……」
椅子を引き、足を組む彩子は大将を鋭い目つきで睨む。ケンジも僕も声が挟めない。
「一本よ。今から一本だけ本気で焼きなさい。合格なら融資、不合格なら店が潰れるのは味のせいだと自覚しなさい」
名刺を取り出して机の上に置く。
河童大将は、迷わず手元の串を1つ出した。
「どの串も手を抜いた事なんてねえ、ねぎまだ。鳥肉とネギ、1番人気だ」
「私はネギが大嫌いよ」
動きが止まる大将に、彩子は攻撃をやめない。
「焼きなさい」
まるで本物のハートブレイク。心を揺さぶるのは完璧、本当に味での勝負か。
その時、ドアが音を立ててチャラ男とギャルが2人入店してくる。同時に彩子はメガネをくいと指で上げた。
「2人ねー、串盛り2人前。後ビール2つ、腹減ったからすぐね!」
「はいよお!」
10分かからない内に、ビールを運び続いてすぐカップルに串を彩子より先に持っていく大将は急いで戻ってきて彩子に笑顔でねぎまを出した。
「お待ち!」
鳥肉とネギを一口ずつ時間をかけて食べた彩子は真剣になった顔の大将に言い放つ。
「美味しいわ」
ケンジと目を合わせて笑顔で手を振ろうとした時に彩子は続けた。
「でも、一つ要望があるわ。それは焼き鳥屋のイメージを大きく損ねる事になります。それでもいいなら融資、ダメなら店をたたみなさい」
多分、最大の駆け引き。大将は味と同じくらい大きなものを賭けられた事になる。
彩子はゆっくりと真ん中から名刺を千切り始めた。今度は時間制限。
そして、半分程切れたところで大将は大声を出した。
「できねえ。一瞬なんでもいいからやる! って言いそうになったが、それじゃやってる意味がねえ」
「合格」
ケンジと僕はリアクションを取らない。多分、この先要望が来る。まだ終わってない。仕事なんてそんなものだから。
「融資をします、その代わり」
目を細めたケンジが冷たい目線で残念そうに彩子の口を見ている。
「シャンパンをこの店に一本だけいつでも出せる様に、置きなさい」
『え』
3人は顔を彩子に近づける。
「Yesか、Noか」
「冷やしとくのぐらいならいいですけど、どこまで本気なんです?」
「決まりね、新しい名刺を一枚渡すから明日電話しなさい」
水を一口飲んだ彩子は小切手を取り出し、ボールペンで書き込んで大将に渡した。
「ほ……本当ですかい? 嘘だったらお嬢さんでも殴りますぜ」
受け取った大将は、それを見て涙を浮かべてした顎を震わせた。
「酔っ払ったわ、会計お願い」
頭を下げた河童大将は名刺と小切手を持ったまま声を荒げる。
「受け取れねえ!」
「あなた、せっかく融資する店の売り上げ減らす気? さ、2人共帰るわよ」
3人立ち上がると、彩子の表情がよく見えた。氷女の様な冷たい態度が、暖かい。
「変わったな、彩子。僕らも売り上げに貢献するために割り勘だな」
「優くん私変わった? でもアプリ始める前ならここに来る事もなかったわね」
河童の大将は今日1番の笑顔と声を出した。
「毎度! おおきに! 1人2630円ね!」
「あ、ごめん2000円足りない。彩子払って」
ケンジは今日3度目の蹴りを入れられた。
「ボケ、ナス、カス! なんであんたはそーなの!」
「ぐおお……」
笑いながら外に出ると、寒風が吹くが酔いと昼前の陽射しもありちっとも寒く感じない。身体に異変をきたす程の出来事があったのはその後だった。
『100万円アプリからの着信』