彼女は心に愛を飼っているらしい
向かい合うのはいつだって勉強だけで、それを誰かが逃げ、というのなら僕は勉強をすることで逃げている。
机の引き出しの奥に仕舞われた絵の具の香りはもうしない。
こびりついて離れない思い出は確かにそこにあったのに。
誰も知らない、誰も気づかない。
僕だけが知ってるその思い出を必死に忘れようとして、ただひたすらにペンを走らせた。
それから夕時まで勉強をしていると、母親が僕の部屋をノックした。
問題を解くのを一時中断し、出かける準備をする。上着だけを簡単に羽織って外に出ると、容赦なく冷たい風が降りかかって来た。
「寒い……」
「もう、そんな薄着してくるからよ」
暖かい春はまだまだ遠い。
寒さはどことなく寂しさを運んで、それを置き去りにしていく気がする。
「あ、いた」
最寄りの駅に着くと、もうすでに父さんは姿があった。
「近くのレストランに行こう」
無駄の言葉をかけることもなく、父さんが言う言葉に僕は頷く。
僕の父さんはとても厳格な人でぺらぺらと何かを話すことはしない。
用件だけを静かに言って歩き出す。それは食事中も同じであった。
食べている時は食べることに集中する。
ぺちゃくちゃと話すことは、品の無いことだと小さい頃から教えられていた。