刑事と画家とお祖母ちゃんの銀銃
神保は不思議だった。
こんな質問に一体どんな意味があるというのだろう?
少なくとも『ひすい』というたった3文字で答えられる質問でメリーさんがルール違反をするとは思えなかった。
「こんな簡単な質問で悪魔がルール違反をするわけがない……そう考えたろ」
見透かしたように翡翠が呟く。
「でもこの質問は絶対に答えられない」
「どういう事だ?」
そう聞き返した時、神保はある違和感に気付いた。
10円玉が淡い青色に輝く『す』の文字の上から全く動かないのだ。
「10円玉が止まってる……これは?」
指先で押さえる硬貨を見つめながら神保は考える。
しばらく考え続けてある事を思い出す。それは『す』を含む複数の文字に細工を加えていた事を。
「翡翠、これは何なんだ」
「青の陣だ。平仮名を書くときペン先が一回転するもの全部に青いペンで仕込んどいた」
「青の陣?」
聞き慣れない単語につい神保はオウム返しをしてしまう。
「青色の塗料で作るまじない陣のことさ。陣の中に入った霊や悪魔の動きを止める効果がある」
翡翠の台詞通り先程まで活発に画用紙の上を滑っていた10円玉は動きを封じ込められているかのように微動だにしなくなっていた。
「君は魔法が使えるのか?」
呆然と10円硬貨を見つめる神保からの問いかけに翡翠は首を横に振る。
「こいつは霊力や魔力なんて必要としないお手軽なおまじないみたいなもんさ。もっとも霊能力者とかが使えば拘束時間も延びるだろうが、こいつには30秒稼げれば十分だ」
2人で会話を続けているうちに気付けば30秒をとうに過ぎている事に神保は今更気付いた。
「占いの質問はメリーさんが30秒以内に答えられるものでなければならない。そして俺達はかなり答えの簡単な質問をした」
「でもメリーさんは30秒以内に答えられなかった。つまり……」
神保の顔が思わずにやける。
「ルール違反だ。悪魔!」
翡翠が高らかに叫ぶ。その表情は神保以上に邪悪な笑みを浮かべていた。
呼び出された悪魔がルールを破った場合、呼び出した側は何かしらの代償を悪魔に請求できる。
「悪魔はルールを破った。代償に俺達もルールを一つ破らせてもらう」
10円玉に話しかけるように言った翡翠は硬貨を押えていた人差し指をそっと離す。神保も後に続くように人差し指を離した。
「指を離して大丈夫か? 逃げられるんじゃ……」
「メリーさんの遊びは10円を鳥居に戻し、俺達が一礼するまで終わらない。メリーさんがいくら逃げたくてもこいつの意思ではこの遊びは終われないのさ」
どこか意地悪く言う翡翠。
「とりあえず僕達の手はこれで自由になったけど、次はどうする?」
「もちろん占いを続けるさ。こいつに盗られた物を返してもらわないとな」
翡翠の二問目の質問は「古代エジプトの天空の女神の名前を教えて欲しい」というものだった。
先程と違い、2人の指先が上に乗っていないただの10円玉が『す』の位置から左斜め下へと滑っていく。何の変哲もない硬貨が独りでに動いていく不気味な様に神保は小さく身震いする。
「で、その女神の名前って何なんだ」
神話に疎い神保が尋ねた。
「ヌーだよ。覚えておけ」
悪魔の動きを止めるというこの作戦は見事に嵌り、10円玉は青の陣が仕込まれた『ぬ』の上まで来るとぴくりとも動かなくなる。
やがて30秒が過ぎ、メリーさんは2度目のルール違反を犯してしまった。
「さて次のペナルティだ」
当前10円玉からの返事は無い。翡翠は構わず自分の要求を口にする。
「お前が奪った玉城香澄、大島裕子、木村絵里の意識を元に戻せ。今すぐだ」
「そんな事が出来るのか!?」
翡翠の口から発されたあまりにもご都合主義な要求に神保が驚きの声を上げる。
その問いに答える前に、紙の上の10円玉から3つの青い玉のような半透明な物体が飛び出してきた。
「悪魔に奪われていた霊魂だな」
3つの霊魂は暫く部屋の天井辺りを浮遊した後、壁をすり抜けてどこかへと飛び去っていく。
「奪うことが出来るのなら元に戻す事だって出来ると考えるのが普通だろう」
「それにしても随分あっさりと返してくれるんだな」
「書物にも書いてあったろ。こいつら召喚悪魔が何よりも大事にしている物はルールや掟といった約束事でありそれを守ることを自らの存在意義としているんだよ」
目の前で起きた出来事と翡翠の返事に神保は自分のいるこの空間には今まで培ってきた常識など何の役にも立たないのだと愕然とした。
非常識やご都合主義、何でもありなのだ。
そして悪魔を相手取った時、その何でもありな空間を上手く使った方が上に立てるのだと本能的に理解する。
現在は深夜なので病院に確認する事も出来ないが、してやったりといった翡翠の表情から察するにきっと今頃3人の女子生徒達はベッドの上で目を覚ましているのだろう。
「神保。とりあえず盗られたものは取り返せたと思うぜ」
「ああ。やったな!」
神保が悦びの声を上げたのも束の間、スーツのポケットに入れていたスマートフォンが突如鳴り始める。
あまりにも突然だったので神保は思わず両肩を跳ねさせて驚く。
ポケットから携帯を取り出すと画面には非通知の文字が表示されていた。
恐る恐る通話のボタンをタッチして耳に当てる。
「ワタシ、メリーさん。今この家の玄関にいるの」
「うわぁあっ!!」
何故か音量が最大まで上げられた通話口から聞こえる渇いた老婆の不気味な声に耐えられず、神保は持っていたスマホを投げ捨てる。
「ワタシ、メリーさん。今廊下ヲ歩いているの」
尚もスマートフォンからは不気味な声が流れ続け、屋敷の廊下からはバタバタと何かが近づいてくる音がこの部屋まで迫ってきていた。
「ワタシ、メリーさん。ワタシ、メリーさん。キャハハハハハハハッ!!」
廊下を走る足音が消えると今度は2人のいる部屋の窓ガラスが外側から叩かれているような振動音が木霊し、部屋全体が大きく揺れ始める。
「今度は地震か!?」
あまりの揺れに思わず神保と翡翠は立ち上がり、部屋の壁に寄りかかった。
「このままじゃまずい。一度避難しよう!」
「馬鹿かお前は。そんな事したら悪魔の思うツボだろうが!」
神保の提案を即否定する翡翠。
「4人の女子がどうして呪われたか忘れたのか? 正しい手順でメリーさんを終えずに途中で逃げ出したからだ」
今、自分たちが逃げ出せば佳代子達の二の舞となることを翡翠は端的に伝える。
「こいつは俺達を呪う為に脅しをかけてんだよ」
「し、しかし……この揺れは……」
窓ガラスが割れ、箪笥の上から様々なものが落ちていく。部屋のあちらこちらから軋む音が響く現状は脅しをかけられている等というレベルを遥かに超えているように神保は感じた。
「心配しなくてもこいつは俺達に危害を加えることは出来ない。何せ俺達は何のルール違反も犯していないんだからな!」
強気に翡翠が叫んだと同時に部屋の電球が割れ、揺れが収まった変わりに辺りは真っ暗になり部屋は静まりかえる。
「揺れが収まった……?」
騒がしく声を出し続けていたスマートフォンも今は通話が切れ、ツーツーといった単調な音を出しながら畳に転がっているだけだった。
「所詮は下級の召喚悪魔。長い間好き放題は出来ないのさ」
「なぁ翡翠。ルール違反で何でも命じられるのなら、二度と悪さが出来ないように言えばいいんじゃないのか?」
「いや、この悪魔への命令が有効なのは〝まじない中〟だけだと書いてあった。仮にここでその命令を出してもメリーさんの遊びを終わればそれまでさ」
「そっ、そうか……」
しかし、翡翠の祖母は過去に二度と悪さをしないようにこの悪魔に呼びかけてたと書物には記されていた。
恐らく蔵島翠は悪魔にも良心があると信じて見逃したのだろう。
そんな祖母の優しさを無視し、また悪事を働いている悪魔を前に翡翠は拳を固く握っていた。
「そして『自らの命を絶て』という命令も出来ない。こいつらには肉体も命も持たないただの〝存在〟だからだ」
特別な力を持たない人間がその存在を消せる唯一つの手段を託した神保を翡翠は見つめる。
翡翠には解っていたのだ。これから先の展開は神保次第で大きく変わることを。
「……オノレ……!」
その時、紙の上に置かれた10円玉が禍々しく赤色に光り、部屋に先程の渇いた老婆の声が響く。
「今度は何だ!?」
未だに超常的な現象に慣れない神保が悲鳴を上げる。
「神保。銀銃を懐から出しておけ」
翡翠の指示通りに神保は焦りながら懐のホルスターから銀銃を抜き出す。
「タダノニンゲンゴトキガ……ヨクモ……ヨクモォオオオオオッ!!」
怒りの咆哮と共に10円玉から赤黒い光の球体が飛び出し、2人の頭上で見下ろすように停滞した。
球体は徐々にその形を変え、段々と人型へと変化していく。
「これが……悪魔……」
初めて超常的な存在を目にした神保が驚きの声を漏らす。
2本の角と長い白髪を生やした羊の頭、首から下の赤黒い肌をした女性の体には黒い羽と尻尾が生えている異様な外見。
更に全身はまるでホログラム映像のように半透明で、書物に書かれていた通り肉体は無さそうだった。
「返セ……私ガ奪ッタ魂ヲ返セェ!」
女子生徒3人の魂を奪い返された事が許せないのか、悪魔は2人を上から睨みつける。
「これが悪魔……ハァッ……ハァッ」
そのおぞましい外見と怒りの迫力に神保は足を奮わせる。落ち着かなくてはと自分に言い聞かせても呼吸は乱れ、異様な圧迫感に襲われているような感覚がますばかりだった。
「残念だがあの霊魂はお前のものじゃない。返してやるわけにはいかない」
「貴様ラ、一体何者ダ」
「お前がさっき自分で言ってたろ。人間だよ、ただのな」
翡翠は姿を現してた悪魔に対しても堂々としていた。その姿は少なからず震えていた神保に勇気を与える。
「先に聞いておこう。お前は蔵島翠という女を知っているか」
「蔵島……翠ダト!?」
翠の名前が出た瞬間、今まで強気に2人を見下ろしていた悪魔の顔が一瞬で引きつり、額からは大量の冷や汗を流し始めた。
「その反応……やはり知っているな俺の祖母を」
悪魔は召喚者に嘘をつく事はできない。
翡翠の質問に紙の上の10円玉も『はい』と答えた。
「貴様ガ……アノ女ノ孫!?」
空中で少し後ずさる悪魔。
超常的な存在を名前だけでここまで恐れさせる蔵島翠とは、よほどの凄い力を持った人物だったのだろう。
神保はそんな人がかつて使っていた銀銃を見つめ、握り締める。
「ナルホド……小賢シイ手ヲ使ッテ来ル訳ダ」
「お前はお祖母ちゃんの忠告を無視し、また悪事を働いた」
「ソレガドウシタ!?」
「仏の顔も二度までなんだよクズ野郎。お前の〝存在〟を消し去ってやるから覚悟しろ」
翡翠がそう啖呵を切ると空中の悪魔は高笑いで返した。
「ツマラナイ呪い陣シカ使エヌ人間ニ何ガ出切ル!?」
青の陣に体を縛られた時、その効果が薄かった事で悪魔は翡翠に霊力や魔力といった特殊な力が宿っていない事を既に知っていた。例えメリーさんの最中に好き放題に命令されようと翡翠には自分を完全に倒す手段が無い事を知っていたのだ。
「ズット待ッテイタノダ……アノ女ガ死ニ、私ガ自由トナル日ヲ」
恨めしそうに翡翠を睨む悪魔の言い分は完全に逆恨みだった。
「貴様ラ人間ハ何デモ知リタガル。何カヲ知ル為ナラバ平気デ危険ヲ省ミズニ私ヲ呼ビ出シ占イニ興ジル愚カナ生キ物ダ」
明らかに人間を見下した物言いに翡翠は眉間に皺を寄せる。