刑事と画家とお祖母ちゃんの銀銃
「あら、なんでこんな所に人の死体があるのかしら?」
とても人の死体を発見してしまった人間の台詞とは思えない軽い口調で独り言を呟く女性の後姿が2人の目に入った。
白のワンピースが似合うほっそりとした体型に腰まで伸びた艶やかな黒髪。後姿だけ見れば何の変哲も無い女性である。
(でも、翡翠の書いた陣の幻覚が見えているという事は……!)
いくら後姿が人間に似ていても幻覚に誘引された時点で目の前にいる女は悪魔、グールなのだと神保は自分に言い聞かせるように銀銃を握り締め、じっと機会を待つ。
「へぇ~、すごいわねこれ」
「くそっ、早く喰えよ……!」
蔵島翠の本によればグールは自分の欲を最優先させる下級の悪魔で、一度死体に齧り付けば食べ終わるまで周りで何が起きようと感知しないと記されてあった。しかし目の前のグールはなかなか幻覚の死体に口を付けようとはせず、ただ陣の周りをジロジロと観察しているだけで翡翠は少しイラつき始めていた。
「ふふっ」
そんな翡翠をあざ笑うかのように背中を2人に向けたまま薄く笑い、信じられない言葉を口にする。
「馬鹿みたい。こんな物、触れるのも嫌だわ」
「何……!?」
「罠が見抜かれてる……!?」
翡翠と神保が同時に驚きの声を上げる。
「どうする翡翠」
グールを仕留める第一段階である餌に敵が食いつかない。予想外の展開に神保は焦りながら翡翠に尋ねた。
「どうするも何も保険を使うしかないだろ。行くぞ」
覚悟を決めたように立ち上がった翡翠に釣られるように神保も立ち上がって2人並んでゴミバケツの陰から姿を晒す。
「よう人喰い女。俺が用意したディナーはお気に召さなかったか?」
「両手を上げて動くな!」
グールの後姿に翡翠は皮肉交じりの挨拶をし、神保は構えた銀銃の銃口を突きつけて威嚇した。
「あら、2人もいたのね」
「ゆっくりとこちらを向け!」
女は神保の命令通りに両手を頭の高さまで上げたままゆっくりと振り返る。
どこか幼さが残る可愛らしい顔、白く透き通るような肌、モデルのような細く引き締まった体つき。
グールの女の容姿を見た神保に衝撃が走った。
翡翠には注意された事も心のどこかでは〝相手は異形の化け物〟なのだと勝手に信じ込んでいた。しかし、今神保の目の前には紛れも無い〝人間の女性〟が写っている。
「これが、この〝人〟が……グール……!?」
敵は人間離れした身体能力の持ち主だという事を書物で知り、しっかりと距離を録っていた2人に向かい、グールは焦るでも襲い掛かるでもなくゆっくりと頭を下げて会釈をした。
「初めまして。私は西園寺知恵。もちろん偽名だけど子供達の間では『人喰いチエちゃん』なんて呼ばれているわ」
神保が動揺しているのもお構いなしに人喰いの悪魔、西園寺知恵は2人に向かって笑顔で自己紹介をした。
「あなた達は何者なの? わざわざこんなものを用意しておいてまさか今更一般人ですなんて言わないわよね」
投げかけられた問いに2人は何も答えることなく目の前の悪魔の動きを見逃さぬように集中する。
「ちょっとちょっと、自己紹介もできないわけ?」
邪気も無く首を傾げるただの人間にしか見えない女性に銃を構える神保の手が微かに震えていた。
「おいグール。殺す前に一つ質問がある」
「私の言葉は無視するくせに自分は私に質問するなんて随分な扱いね。まぁいいわ、何かしら?」
暗い路地裏で1人の女性に2人の男が対峙するという端から見ればどう見ても神保達が悪者な場面を気に留める事もなく翡翠は尋ねる。
「何故あの陣が、あの死体が偽者だと解った?」
黄色の絵の具で書かれた幻覚の陣を指差されながら聞かれたことに知恵は背後の偽死体の映像を一瞥した。
「別に偽者だと解った訳じゃないわ。ただこの死体に興味が持てなかった……いえ、食欲がそそられなかっただけよ」
自分の腹を摩りながら空腹アピールをする知恵の解答に翡翠はまだ納得がいかないのか不満そうな顔で舌打ちをする。
「翡翠……」
「大丈夫だ。お前はその銃弾ぶち当てることにだけ集中してろ」
罠が効かなかった相手に不安そうな声を出す神保の様子に翡翠は冷静になるよう小声で指示した。
「ちょっと。あなたの質問に答えたのだからいい加減名前くらい教えてくれても良いのじゃない」
「これから死ぬ奴に教えたって意味無いだろ」
いかにも悪役が言いそうな言葉で挑発し、翡翠は回答を拒む。相手が自分の知っているグールでは無い以上どんな情報も迂闊に渡すことは出来ないと判断したからだった。
「なかなか言うわね。まぁ良いわ。そっちの方が燃えるもの」
「何だと?」
「あなた達2人共、顔立ちは良いし変な匂いの香水とかもつけて無いみたいだから夕食にぴったりよ」
知恵は舌なめずりをしながら左右交互に視線を動かして神保と翡翠の2人を品定めするかのように上から下まで観察しだした。
「ああぁ。不思議な人達……人間のくせに私の事を最初から悪魔だと知っていたし変な罠まで用意してまで私を殺そうとして」
涎を垂らしながら小声で何かを呟く知恵の不気味な雰囲気に2人は思わず唾を飲み込んで本能的に感じた恐怖に耐える。
「神保。準備しとけよ」
「あ、ああ……」
「おい、いくら何でも体がちがちに固くしすぎだぞ。大丈夫かよ」
「大丈夫。大丈夫さ……」
明らかに動揺している神保の様子に翡翠は気付いていたが敵が目の前にいる状況では軽い言葉をかけるくらいの事しか出来なかった。
「本当に何者なのかしら。知りたい……しりたいシリタイ知りたい死リタイぁああもう我慢できない」
先程から挙動不審な動きを繰り返していた知恵の動きがぴたりと止まり、数秒間の異様な静けさが辺りを包む。
「……モウ食ベチャオウ……!」
「構えろ神保ぉ!! 来るぞ!」
「アハハハハハハハハッ!!」
高らかに笑いながら知恵は姿勢を低くし獣のように突進する。その速度は人間のそれを遥かに超え、翡翠はあっさりと懐に潜り込まれてしまう。
「不思議なまじない使いの人、まずはあなたから食べてあげるぅッ!」
「翡翠!」
大きく開かれた口が翡翠の眼前に迫った瞬間。
「……あ……が……っ!?」
躍動していた知恵の動きが金縛りを受けたようにぴたりと止まった。
「何……これ……!?」
苦しそうに呻く知恵。2人はその隙に背後に回りこんで再び距離を取る。
「今お前が掛かったのは悪魔を束縛する青の陣。描かれた円内に踏み込んだ悪魔を一時的に動けなくする」
翡翠の言葉につられる様に知恵が視線を下ろすと足元でまじないの陣が微かに青く輝いていた。
「魔術師や霊能力者が使えば何時間も拘束できる代物らしいが生憎と俺はただの人間なんでな。2分ほどしか動きを封じる事は出来ない」
「ただの人間ですって? 人間がどうしてこんな力を……!?」
拘束されたまま指一本すら動かす事のできない知恵が苦しそうに疑問を口にする。
「まじないの陣は使用者に特別な力が無くとも正しく描けばそれだけで力を発揮してくれるお手軽なものだ。知識さえあればただの人間にも悪魔と戦う術は有るって事だ」
口の端をつり上げながら話す翡翠の説明を受け、知恵は必死にもがこうとするが指一本すら動かせず、額から汗を流す。
誘引の陣こそ上手くいかなかったものの、当初の予定であるグールの動きを封じるという作戦自体は成功し、翡翠は勝利を確信した。
素早いグールの動きを封じてしまえば後は止めを刺すだけだったからだ。
「翡翠……!」
「おう、トドメだ。撃て神保」
無様に固まる知恵の背中を見ながら翡翠は銀銃から放たれる弾丸を待つ。
しかし、隣の神保の構える銃口からはいつまで経っても銀の閃光が発射されることは無かった。
「おいどうした!?」
「解らない! さっきから何度も引き金を引いているのに、銀銃が撃てないんだ!!」
「何だって……!?」
その言葉を聞いて、翡翠は今まで意識を知恵にばかり集中させていたことを後悔する。 神保は知恵の足を狙って何度も激鉄を親指で起こして引き金を引くがそのたびに錆びれた衝突音だけが鳴るだけだった。
「くそっ! くそっ!」
「不味いぞ……そろそろ陣の拘束時間が終わる」
2人がもたついているうちに固まっていた知恵の体が僅かながらに動きを取り戻していく。
「何故だ? メリーさんの時はちゃんと撃てたじゃないかっ!」
本来の力を発揮しないまま、渇いた音を出し続ける銀銃に苛立つ神保。
徐々に知恵の足元にある陣の光りが失せていく。
「……逃げるぞ神保」
「翡翠?」
「拘束が解ける。銀銃が撃てない以上俺達に勝ち目はない」
自分達の置かれている状況を冷静に見極めた翡翠が悔しそうに撤退の指示を出す。しかし神保はそれに従おうとはしなかった。
「いや、銀銃が無くても解決できるもう一つの方法を考えたよ……」
「もう一つの方法だと?」
自ら考えた案に自信が無いのか小さな声で神保が呟く。
「もう何秒も捕まえていられない。逃げるなら今なんだぞ?」
「解ってる! 何とかするから――」
意見が割れ、口論している間に陣の効力はどんどん薄れていく。
「ふふ、私を捕らえたところまでは見事だったわ。でもどうやら決定打が無いみたいね」
そして、とうとう光は消え失せて知恵が自由の身となってしまった。
「う~ん」
深い眠りから覚めたかのように知恵は体を大きく伸ばした後に両手を何度も握り感触を確かめる。
翡翠と神保はその様子をただ黙って見ているしか出来なかった。
「どうやら本当に体を動けなくするだけで他の効果とかは無いみたいね」
完全に陣の拘束から解き放たれた知恵だったが、まだ他に罠がないか警戒しているのか足元や自分の周辺を念入りに見渡し始める。
「どうするつもりなんだ神保?」
「……自首してもらうんだ」
「はっ!?」
突然素っ頓狂な案を言い出す神保に翡翠は口を大きく空けて驚く。
「お前何を馬鹿な事を――」
「なぁ知恵さん。少し話を聞いてくれないか?」
相方を無視して神保は銀銃を懐にしまい、敵意が無い事をアピールしてから知恵に向けて説得を始める。
「あらあら、人を不思議な術で縛り付けておいて今更お話しがしたいだんてつくづく失礼な人達ね」
「……すまない。だが君と話す為にまずは落ち着いて欲しかったんだ」
神保の見え見えの嘘に眉間に皺を寄せる知恵。
「色々と言いたい事はあるけどまぁいいわ。それで、お話って?」
「単刀直入に言って君に人間に戻って欲しい。人間として自首し、罪を償って欲しい」
「はぁ……? あなた馬鹿なんじゃないの」
知恵だけでなく端から話を聞く翡翠も苛々を募らせていく。
「人間として罪を償い、人間として世の中に帰ってきて欲しいんだ。人間から悪魔になれるのならその逆だって出来るだろう?」
「アッハハハハハハっ!!」
知恵は腹の底から神保をあざ笑う。
「神保ぉ! この馬鹿野ろ――」
我慢できずに翡翠が今までずっと握り続けていた右手で神保を殴ろうとした時。
「いいわ。あなたの提案にのってあげる」
「本当か!?」
「……莫迦な」
予想外の返答が知恵から返ってきたことに神保は安堵し、逆に翡翠は益々警戒をつよくした。