刑事と画家とお祖母ちゃんの銀銃

「私も正直こんな生活長続きしないと思ってた所なのよ。悪魔から人間に戻れるかどうか解らないけど、せめて心だけでも普通の人間の女に戻りたいわ」

 そう言って知恵は握った両の手を合わせて前に出す。

「さぁ、手錠をかけて」
「ふざけるなこの悪魔っ!! 臭い芝居をしやがって」

 物分りの良過ぎる相手の態度に思わず翡翠が叫ぶ。実際誰の目から見ても知恵の台詞はどこか演技じみていて茶番だと解る程だ。  
 しかし神保の性格を知っている翡翠は大げさに知恵への不審を煽るしかなかった。

「止せ翡翠。彼女は自首すると言ってるんだ」
「出会って数分。偽名しか名乗っていない女をどうしたらそこまで信用出来るんだよ」
「ちょっと、さっきからあなた何なのよ?」

 相方を近づけまいとする翡翠の行動に不快感を示すように知恵が突っかかる。
両者が互いを睨み合った。

「あなたさっきから私を殺すことばかり考えているでしょう? 私は自首すると言っているのよ」
「悪魔の言う事など信用できるものか」       
「言っておくけどあなたが少しでも不審な動きをすればその時点でこの話は無かった事にするからね」

 その言葉を聞いて焦ったのは神保だった。

「ちょっと待ってくれ。今手錠をかけるから」

 そう言って神保は腰のホルスターから黒い手錠を取り出し、翡翠の方を見て「大丈夫だから心配しないでくれ」と続ける。
翡翠は首を左右に振り、知恵に近づく事を警告したが神保は聞く耳を持たなかった。

「相手は悪魔だぞ!? それに一度グールになった人間が元に戻った話なんて聞いたことがない」
「誘引の陣も彼女には効かなかったし、きっとまだ人間らしさがどこかに残っているんだよ。いいか翡翠、動くなよ」

 手錠を持ってゆっくり、ゆっくりと知恵に4歩近づく。チエは更に警戒心を解くためか目を瞑り両手を前に出したまま動かない。

「西園寺知恵……殺人の容疑であなたを逮捕する」

知恵の前に立った神保が手錠を嵌めようとしたその瞬間。
「フフッ。もう駄目。笑いを堪えられないわ」

 目の前の知恵がくすくすと笑い始める。

「あなたって本当に馬鹿ね」
「避けろ神保!」

 手錠が嵌められる前に知恵は両手を引っ込め、変わりに顎が外れるほど大きく開いた口を神保の胸元目掛けて突き出した。

「イタダキマス」

 その言葉に戦慄した神保は咄嗟に動けなかった。
本能的な恐怖が全身を固めてしまったからだ。噛まれるとか怪我をするだとかの程度ではなく、千切られ抉られてここで自分は死ぬのだという恐怖を。
 はっきりと死を意識した瞬間、周りの景色がスローモーションに回り始めた。

「う……ぁっ……」

 無意識に口から小さな悲鳴がこぼれ、前歯の先端がスーツ越しの右胸に当たる。
猛獣に襲われるように、このまま噛み殺されてしまうと諦めた瞬間。
右から強い力で押された神保の体が左へ倒れこむ。
上半身が僅かに逸れた為、右胸を抉るはずだった知恵の攻撃は右上腕筋の外側をほんの少し齧り取っただけに終わる。
もちろん押し倒したのは翡翠だった。神保が知恵に近づいた時、自分の体が知恵の死角に入った瞬間から翡翠は走り出していたのだ。
覆いかぶさるように倒れこんだ翡翠は慌てて体を起こし、神保の容体を確認する。

「ぁあ……!」

 僅かといえど肉体の一部を噛み千切られた神保は喰われた右腕を押さえながら激痛に耐える。
血が腕を伝い、指先からアスファルトに一滴一滴と静かに落ちていく。
一方知恵は殺すことには失敗したものの口で抉り取った神保の肉片をゆっくりとサイコロステーキでも食べるかのように舌の上で転がし堪能していた。
小さな肉片を奥歯で何度も噛み締め、その食感を十分に楽しんでから飲み込む。
人の肉を食べる瞬間というのはグールにとって至福の時間であり、神保の肉を食べた知恵も恍惚とした表情で溢れる幸福に身震いさせた。

「ああ……聡介さん!!」

 まるで恋する乙女のような顔で知恵は地面に倒れこんでいる神保を見下ろす。

「あなたの体、とても美味しいわ! 今まで味わった事の無いほどに!!」

 異常に興奮する目の前の悪魔の様子に翡翠は祖母の記録に残されていた一文を思い出していた。
 1度食事を始めれば例え己が攻撃を受けても絶対に食べるのを止めようとはしない。
今、知恵は神保の肉体を飲み込んだ。
恐らくはこれから自分の空腹が満たされるまで、つまり神保をむさぼり喰うまでは仮にこの場から逃げたとしても執拗に追い続けてくるだろう。

「神保、立てるか?」

 目の前の敵の動きを警戒しながら背後で倒れている神保に声をかける翡翠。

「ぐ……っ。へ、平気だ」

 辛そうな顔をしながらも神保は何とか体を起こし、立ち上がった。  
 とりあえず一人でも動けそうな相方の様子に安心する翡翠。

「今度こそ、ここから逃げるぞ」
「……解った」

 さすがに今度ばかりは神保も撤退に反対はせず、大人しく首を縦に振る。

「馬鹿ねぇ。逃がす訳無いじゃない」

 そんな2人の会話を聞いていた知恵があざ笑いながら立ち塞がった。
ここから逃げ出すには2人が通ってきた狭い通路をもう一度抜けるしか方法は無いのだが、そうするには目の前の知恵を何とか抜き去らなければならない。
ただでさえ超人的な体を持つ知恵を何と躱さなければならない上にこちらは一人が負傷している。逃げるのならまず眼前の悪魔を何とかしなければならない事を翡翠はわかっていた。

「来るなら来て見ろ! 俺の陣の餌食にしてやるぞっ!」

 強気な言葉で翡翠が怒鳴る。
しかし、知恵から見ればそれはもはやただの強がりにしか見えなかった。

「そう。じゃあ……遠慮なく行かせてもらうわねぇ!」

 あらかじめ裏路地の壁や床にはもう何のまじないも仕掛けていない事を確認していた知恵は安心して2人目掛けて突っ込む。

「光の陣よ!」
「ハッタリでしょうっ!?」

 知恵が叫んだ瞬間に翡翠は今の今までずっと固く握り続けていた右手を突き出し、開いて見せた。
翡翠の右の掌を見た瞬間、突如として知恵の両目に激痛が走り視界が暗転する。
 あまりの痛みに両手で目を塞ぎ、獣のような叫び声を上げる知恵。
後ろからその光景を見ていた神保は一体今、何が起きたのかさっぱり解らなかった。

「目ぇえええっ! 私の目がぁああああっ!」
「今だ! 走れ神保」

 呆然と苦しむ知恵の様子を見続ける神保を急かすように翡翠は叫んだ。
 我に返った神保は翡翠の後に続くように知恵の横を走り抜け、狭い通路を通って商店街の大通りへと戻り出る。

「待って聡介さん! もっと食べさせて、もっと愛させて、私から逃げないで! 待てぇえええええええっ!」

 背後の裏路地から絶叫が響く。

「構うな神保。一旦俺の家まで戻るぞ」
「あ、ああ。行こう」
「どこよ聡介さん……どこにいるのよ!? 私からは逃げられないわよどこまでも追いかけて必ず見つけ出しあなたの体を骨まで噛み砕いて――」

 商店街の入り口まで走ってようやく知恵の叫び声は耳まで届かなくなった。右腕から血が流れ続けるおかげで途中多くの人に怪しい視線を送られたが、どうやら2人は逃げ果せることが出来たようだった。
たまたま通りがかったタクシーを広い、翡翠の屋敷まで急いで戻る。
道中2人は一切言葉を交わさなかった。
神保の様子を見て運転手が病院に行く事を勧めたが「いいからさっさと言われた場所に行け」と翡翠が怒鳴ってからは何も言わずに車を走らせ、10分もしないうちに屋敷へと続く長い石階段前へと到着する。
 50段以上ある階段を2人は無言のまま上っていく。
屋敷前に着く頃には負傷している神保よりも翡翠の方が息を荒げていた。

「……あの、翡翠」

 翡翠が門を開けようとした時、神保が後ろから気まずそうに声をかける。
無言で神保の方を向く翡翠。

「さっきは本当にすまな――」

 言い終える前に翡翠の左手は神保の右頬を打っていた。

「覚悟は出来てたんじゃなかったのか?」
「すまな――」

 今度は左手の甲で左頬を打つ。

「お前死ぬかもしれなかったんだぞ!!」

 間髪いれずに両手で胸倉を掴まれ、神保は門に背中から叩きつけられる。

「確かに銀銃は不思議な武器だ! どうやって撃てるのか俺だって解らない。けどな、今回どうしてお前が銀銃を撃てなかったかは俺にも解るぜ!!」

 翡翠の台詞に神保は返す言葉が無かった。

「被害者の無念を晴らすんじゃなかったのか? これ以上犠牲者を増やしたくないんじゃなかったのか!?」

 戦闘中、神保に知恵を殺す気が無かったことに翡翠は何となく勘付いていた。人間そっくりとは書物に記されてあっても〝人間の姿そのまま〟に悪魔が出てくるとは思わなかったのだろう。
怯える神保が銃を構えた時、銃口が頭ではなく足を狙っていた事に翡翠は気付いていたのだ。

「あいつは悪魔に身を落とした者だ。人の法で裁こうなんて2度と考えるな」

 荒っぽく両手を神保から離した翡翠が屋敷の門を開く。神保はただその場に呆然と立ち尽くしていた。

「入れよ。傷の治療してやる」
「すまない……」

 小さい声で謝罪の言葉を漏らす。
 今の神保には肉を抉られた右腕よりも翡翠に叩かれた両の頬の方がよっぽど痛かった。 屋敷に入ると翡翠は自分の部屋に神保を座らせて上着を脱がせ、傷の治療を始める。
 押入れから薬箱を取り出して消毒液を少しずつガーゼに垂らして傷口に当てると痺れるような痛みに神保が顔をしかめた。
 消毒を終えると翡翠は慣れない手つきで包帯を神保の腕に巻きつける。他人の怪我の治療など今まで行ったことは無かったがそれでも病院に行くわけには行かなかった。
理由は地下蔵で見たグールの特性のせいだ。
一口でも食事を口にすれば周りで何が起ころうと彼らはそれに夢中になる。
知恵はわずかながらも神保の肉を喰った。
食事を終えるまで、満腹になるまで食い尽くすまで本人が言った通りどこまでも追いかけてくるのだ。
病院などに連れて行って一般人を巻き込むわけにいかないと翡翠は考え、一緒に書物を読んだ神保もそれに気付いていた。

「痛いっ。そういえば翡翠……最後のアレはなんだったんだ?」

 やっと痛みに慣れてきた神保はおもむろに口を開く。

「我慢しろ。アレって〝光の陣〟のことか?」
「ああ。君が手を開いた瞬間、急にグールが苦しみ出したように見えたが」
「別に何のことは無い。ただ強烈な光を悪魔に見せるまじないを掌に書いてただけだ」

 そう言って翡翠は右手に描かれた黄色の陣を見せた。

「最初に悪魔用の餌を見せる幻覚の陣を用意したろ? あれの光り版だと思えばいい」

 人間の神保の目からはただ知恵が苦しんでいるようにしか見えなかったが、悪魔の目には至近距離で強烈なスタングレネードが炸裂したように見えたのだろう。

「不意打ちは見事に決まったからな。あいつが回復して追ってくるまである程度の時間は稼げるだろう」

「これからどうする?」

 心配そうに尋ねる神保に翡翠は少し考えて返答する。

「とりあえず今日連戦するのは戦力的にきつい。お前は負傷してる上に銀銃まで撃てないからな」

言葉が棘のように神保の胸に刺さる。翡翠の言い方はまるでいかに自分が足手まといになっているのかを自覚させるようだった。
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