ビルの恋
低めで落ち着いた、聞きやすい声だ。

「はい?」振り向いて答える。

なんだろう、名前ネタ?

「お名前」

やっぱり。

「カボリさん、っておっしゃるんですか。
漢字は?
季節の夏に、道頓堀の堀?」

珍しい苗字なのでよく聞かれるのだ。

「そうです。よく漢字ご存知ですね」

漢字を知っている人は珍しい。

「もしかして、夏堀奈央さん?」

彼は慎重に、尋ねた。

そして緊張した面持ちで私を見つめ、答えを待っている。

「・・・そうですけど」

どこで会った?
記憶を探りつつ、答えた。

すると彼は安堵したような表情を浮かべ、明るく言った。

「信じられないな、こんなところで会えるなんて。
覚えてないかもしれないけど、伊坂です。
小学校で一緒だった」

イサカ?

コートの内ポケットからから名刺入れを取り出し、私に差し出した。

「これ」

慣れた手つきで渡された名刺には、

「瀬尾法律事務所 弁護士 伊坂和哉」

とあった。

見た途端、記憶が蘇る。

「・・・伊坂君!」

小学校にいた。

小柄で大人しくて。

休み時間は、教室に残って絵を描いていた。

勉強はできたけど、運動音痴で、よく男子にいじめられていた。

目の前に立っている、自信に満ちた佇まいの彼とはまったく違うタイプだった。

「思い出した。伊坂君!懐かしい!・・・でも感じ変わったね?」

そう言うと伊坂君はすました顔で、

「そう?」

と聞いた。

「うん、おどおどした感じがなくなった」

そうだ。

昔の伊坂君は、周囲に対して委縮している感じがした。

「夏堀さんの職場は?良かったら今度・・・」

伊坂君が言いかけたところで、エレベーターが29階に着いた。

伊坂君の事務所があるフロアだ。

一瞬の沈黙の後、

「連絡して」

さっきくれた名刺を指し、伊坂君は降りていった。
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