待ち人来たらずは恋のきざし
重い足取りでマンションの階段を上がり切った。
すんなりと部屋に入りたくて、鍵を取り出しておこうと思った。
バッグの中に手を入れガサガサと探り当て、手にしたつもりだった。
しっかり掴んで無かったようだ。
チャリン…。
取り出したところでアッサリ落としてしまった。
…はぁ、もう…。鍵も手に付かないなんて…。
おばちゃんに会ってもまだこの調子なんて、今日は元々の自分のコンディションが悪かったのかも知れない。
理由にして逃げるつもりは無いけど、女のバロメーターというやつかな…。
もしかして思ったより今日はダメージが深いのかも、…はぁぁ。
DVDでも借りて来れば良かったかな…。
観ても入って来ないだろうけど。
拾う為にしゃがみ込んだ。
一つ一つの動作が怠慢で散漫だ。
仕方なく拾ってるから中々拾わない。
鍵にゆっくり手を伸ばした。
…ん?
誰かの手が伸びて来て、先に私の鍵を拾い上げた。
「あ、すみません…」
条件反射だ。言葉だけははっきりと速い。
側に居たその人を自然に見上げた。
見えていた足元は…濃いブラウンの革靴…男の人だった。
黒いスラックス、スーツ姿だ…、あ。
この顔…。顔を向けた先に確認した顔は最近知った顔だった。
「お帰り、景衣、…お疲れ。
こんなんしてたら、いつかは本当に無くすぞ?
今日は通常勤務だったのか?」
腕を取られ、鍵を握らされそのまま手を繋がれた。
「貴方…」
…温かい手だった。
そう思ったら涙が突然溢れた。
「あ、おい、どうした。
参ったな…おい…、そんなにきつく言ったつもりじゃ無かったんだ。嫌味っぽく聞こえたら悪かった。
鍵落としたから、気をつけろってつもりで言ったんだ。
言い過ぎたか?」
「ううん、違います…何でも無いんです…」
「あ゙ー、もう。何でもなくないだろうが。
…苦手なんだよ」
引き上げられた。
あ、…。え?
思いがけず…トクンと一つ大きな鼓動がした。
片手で頭を胸に押し付けられていた。
え…な、に?
自分の心臓、小動物みたいに鼓動が速くなるのが解った。
あ、これがずっと続いたら早死にするかも。
「…いきなり泣かれたら、どうしたらいいか解らない…。
鍵貸して。開けて入るぞ?」
返事なんか待ってくれない。
手の中から鍵を取り上げられ、腕を引かれ部屋に向かっていた。
男がカチャカチャと鍵を開けて入る。
「上がるぞ?」
「え…はい、どうぞ…」
…簡単に入れて上げてしまうものだ。
取り敢えずソファーに一緒に座った。
「はぁ、焦った…びっくりしたぞ。
何でもないって…じゃあどうしたんだ」
「…ごめんなさい、泣くなんてどうかしてたのかも。本当、どうかしてたの…。
大した事無いの、…いつもの事なんです。
ほら、仕事で…、電話でよくある事って話したでしょ?それだから。慣れてる事だし。
だから泣く程の事では全然無いの」
そう、泣く程の事では全然無いはずのものだから。そんな弱い私じゃ無い。
ただ、いつもみたいに一人じゃ無かったから。
鍵を拾った貴方が居たからよ。
だから多分涙が出たんだと思う。
誤魔化しみたいな言い方だけど、帰って来た自分が一人じゃ無くて…気持ちが緩んだのかも知れない。
一瞬だけ弱くなって、甘えが出たのかも知れない。
また少しジワッと涙がこぼれた。
…、あっ。
「だったら何でだろうな、…これ」
隣から手が伸びて来て、頬に当てられたかと思ったらスライドするみたいに親指で拭われた。
慌ててその腕を掴んで、ゆっくり離した。
「あ…ご飯、…もうご飯食べましたか?
まだなら一緒に食べてくれませんか?
私、これからなんです。お弁当屋さんに寄って来たんです。
…ほら、見てください、お弁当買って来たんです。他にも色々、お店のおばさんがくれた物もあるんです。これ手作りなんですよ。
今日は最初から完全な手抜きなんです。
ね、こんなに惣菜も貰ってしまって、一人では食べ切れないと思ってたし。
ご飯は炊けば直ぐだし。
五穀米、好きですか?
好きならこっちのご飯を譲ります。
あ、これじゃ少なめだから、足りなければ結局、白いご飯も食べる事になりますね」
シャカシャカと袋を広げて見せた。
キッチンのテーブルに持って行こうとした。
「…景衣は困るとお喋りになるんだな…」
…え。な、に…。…え?
男が立ち上がった。
「…よし、じゃあご飯炊くか」
…今、唇…触れた?
一瞬だ。
手が顔を包んで…冷たく濡れた頬に、柔らかいモノが触れた…?気がした。
「景衣~、米どこだ?」
キッチンから声がした。
…。あっ。あ…は、い。はい。
「あ、はい。私がします」
慌てて袋を持って私もキッチンに行った。
男が手にしていた内窯を引き取った。
「座っててください。私がしますから」
「…ん、はい」
身体の向きを変えさせ背中を押した。
さっきの、何だったの。何だか変よ…何もかも。
今日、可笑しくなってる。