待ち人来たらずは恋のきざし
もう、10年以上前になるのか…。
…12年、か。
この会社に転職してまだ半年にも満たない頃だった。
…嫌な事が重なった。
その頃の私には恋人と呼べる男が居た。
つき合って2年とちょっと。
普通にこんなモノだと、順調だと思っていた。
それが、だ。
思うように会えないなら、別れよう、と何の前触れも無く言われた。
会えないならって、今更?
初めから、仕事で中々会えないのは解って始めたつき合いだったんじゃないの?
それなのにだ。
要は、いつも会いたい時に会える、そんな女と既につき合いは始まっていたんだ。
そっちが順調になったから?こっちは無くてよくなったって話だ。
そして、その日は、仕事でも少しキツイダメージを受けた日でもあった。
嫌な事は重なるものなんだって思った日だ。
何も纏めて来なくていいのに。
踏んだり蹴ったりだ…。そんな事を思った日だった。
…はぁ、こんな日は中々あるモノでは無い。
若かったし、仕事も恋愛も、全てにおいて明らかに経験が足りてなかった。
電話相手に一方的にガンガン文句を言われた後で、つい涙が滲んだ。
悔しかった。でも言い返せない。それだけの事だ。
涙が出てしまった事を気付かれないように席を離れた。
…納得がいかない事で、黙って聞き続けるなんて…悔しい。…だけど、仕事だ。
仕方がないのは頭では解っている。…私の気持ちが悔しいんだ。
ある程度フロアを離れてから走った先、休憩室に誰かが居た。
こちらに背を向け、腰に手を当て立っていた。
自分でも何故そうしたのか訳が解らなかった。
走ってどんどん近づいて来るその背中に、後ろから抱き着いていた。
…はぁ。逞しく引き締まった身体に腕を回し、ギュッと抱きしめた。
「ぅおっ。お、おい、…誰だ、男にだってこれはセクハラだぞ」
その人は不意の衝撃にカップの珈琲を少し零した。
褐色の液体が床に降ったのが見えた。
それでも返事もせず、黙って身体に抱き着いていた。
「ん?…背中。…泣いているのか?
シャツが湿って来たぞ」
「グス…ごめんなさい」
…課長。
「…何かあったのか」
「はい…いえ、いいえ、何も」
「フ、だよな。お前ならそう言う」
「…はい」
「浅黄だよな?」
「…浅黄です」
「浅黄か…」
「…はい、浅黄です」
「誰でもいいのか?こんな事」
課長も無理に腕を解かそうともしない。
「誰でも良く無いです。…好きな背中だったから、…いいんです。でも、許可無くごめんなさい」
「フ。それは、ある意味、誰でもいいって事じゃないのか?」
「課長ですよね?」
「ああ、そうだろ」
「課長の背中は好きです」
「背中だけか…」
「はい。背中しか知りませんから」
「フ、そうか、…面白い言い方をするな。
で…何があったんだ」
「言いたく無いです」
「そんな…強がりだけでこの先やっていけるのか?」
「いけません。…でも言いたく無いです」
「…そうか。じゃあ…、帰り、飯でも行くか?いや、つき合ってくれ。
何が好きだ?」
「好き嫌いはありません、何でも食べます。
何でも好きです」
「…解った」
回していた手をポンポンとされた。