待ち人来たらずは恋のきざし

上着を肩に掛け、黙って歩く課長に手を引かれ、何も言わず私も歩いた。

歩いた先、行き着いたのは課長のマンションだった。
エレベーターに乗ろうとした。
課長の手を離そうとした。

「あ、課長、私、恐い。エレベーターは乗れません。
閉所恐怖症なんです」

手を強く握り返された。中に一緒に入った。今はまだいい。扉が開いているから。

「閉まったら駄目です。…恐い」

「知ってる。いつも階段を使ってる事も。大丈夫だ。直ぐ着く。
こうして居れば閉所だって解らない…恐く無いから…大丈夫だ、浅黄…」

言いながら閉まるボタンと部屋の階のボタンを押した。
昇り始めた。
課長は私の顔を包んで唇を重ねた。何度も優しく食まれた。

チン。

「ん…大丈夫だっただろ?」

顔から離れた手は、力無く垂れていた私の手をまた取った。
肩から落ちかけていた上着を手にした。

「…こっちだ」

手を引かれるがまま部屋の前まで来た。
鍵を開けると、中に入れられた。

上がるように促され、また手を引かれた。
後をついて歩き、連れて来られた先はベッドルームだった。

エレベーターで優しくキスをされ続け、身体はもうとうに熱くなっていた。


「浅黄、いいって事だよな?」

「…はい」

ここまで来て今更ノーは無い。
ベッドにゆっくり倒された。

課長も私もお酒は飲んでいない。今日は飲まないからと課長は大将に謝っていた。
二人共、ウーロン茶だった。
だから意識ははっきりしている。

酔った上の過ちには出来ない。
初めから課長は過ちにはしないつもり…だったんだ。

「浅黄…、俺は好きだったよ、浅黄の事が…ずっと」

「え、課長…」

…知らなかった。そんな素振りは無かったと思う。

「…一目惚れだ。うちに入って来た時から、浅黄にはもうつき合っている男が居た。今日の話の男だ。
だから言えなかった」

「課長…でも課長は…」

「今は俺の事、好きなんだろ?…それだけでいい。
俺はそれだけでいいから連れて来た。…あとは浅黄次第だ」

「私…課長の背中が好きなんです。
それだけの理由でいいなら…」

「いいって事でいいのか?」

「はい」

「はぁ、…浅黄。浅黄らしい言い方だな。
…背中以外も好きになってみないか…。駄目だよな。…はぁ。
それは欲張りというモノだな。…浅黄」


凄く切ない顔で見下ろされていた。
ぁ…、抱きしめられた。

「…課、長」

私、都合のいい女じゃないから。
これは私の意思での事。気持ちはある。

「…頼む。別に課長でもいいんだけど、今だけ奏一郎と呼んでくれないか。
課長だとどうも不純な匂いがする」

「解りました。では…奏一郎さん…」

「ああ。俺も、景衣って呼びたい。いいか?
こんな時にしか呼ばないから」

頬に手を当てられた。

「…はい。…いいですよ」

「はぁ、…景衣。この身体と心で覚えていて欲しい。
景衣の事、俺の綺麗な心で好きだって事」

「…え。…どういう意味ですか?…それ」

「純粋な気持ちで好きだって事だ。それだけ、大切な思いだって事だ。
…そんな気持ちで景衣を抱くんだ。
…景衣」

「ん…奏一郎さん」

課長は年内には結婚する。
それは周知の事実。社内のみんなが知っている事。
勿論、私も知っている。

その上で、私は課長に抱かれた。そんな人なのに…背徳感は無かった。
それは、課長が望んで私を抱いたからだと思った。

課長とはその一度だけ。…と言うか、その日だけ。

そして課長は上司の勧める女性と予定通り結婚したのだ。

課長の綺麗じゃない心の方。
その心で結婚を決め、するんだと言った。
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