待ち人来たらずは恋のきざし

課長は優しく時に激しく、何度も私を愛した。
別れた男とは、感じた事の無かった、そんな快楽を沢山与えられた…。
私はそんな課長に身を委ね翻弄され続けた。
景衣って、沢山呼ばれた。ずっと呼びたくて堪らなかったと言われた。
ずっと、こうして触れたかったんだと。

課長は私を抱き寄せて横になり、話し始めた。お互いの身体が汗ばんでいるのが解った。
結婚の事、何も干渉せず、相手が嫌気がささない限りは、きっと上手くやって行けるだろうと言った。
最初からそんな思いの男に、向こうも興味なんてもんは無いだろうと。
駄目になったとしてもそんな結婚だ、と。
俺は元々、誰かときっちり一緒に生活する事には向いて無いと思うしと言う。
駄目になるかも知れない結婚…だったら何故結婚するんだろう。
そう思った。
この結婚は大人の都合だと言った。
でも、だったらしない方がいいのにと思っていたら、その思いを察したのか、それでもしないといけない場合もあるんだ、それで収まるんだ、と、課長は言った。
それを聞いて、言ってはいけないと思った、だけど、そんなの虚しいと思います、と言ってしまった。
課長は私の頬に手を当て、私を見て言った。この時の顔…覚えている。

虚しさは、会社で景衣の顔を見る事で報われるだろうと言った。
そして、景衣…、と切ない声で呼ばれ、胸に顔を押し付けられた。
抱きしめられ髪を撫でられた。
…課長。…心臓の音が鮮明に聞こえる。ドク、ドクと力強い音、だけど…速い。
重いだろ?
知ってしまったら、面倒臭いだろと言う。
私はまだ大人の会話が上手く出来なかった。
だけど…、知らなければいい事です、今日の事も、課長の気持ちも、何も無かった、何も知らなかった事にしておきますと返した。
そしたら、今夜した事は、有った事にしてくれと言われた。
無かった事にされたら、それこそ虚しいじゃないかって。
誰にも言わない、この事はずっと二人だけの秘密だと言われた。
…そうだ、そうなんだ。 課長の純粋な思いでした事を、無かった事にしてはいけなかったのに…。
だから私はこう返した。
私、後悔はしていませんよ?
だって、好きだと思ったからしました、と。
そして、私から課長を抱きしめた。

「まだ朝まで時間はあります…」

上手く雰囲気のある言葉は言えなかった。
それでも、して構わないという気持ちは伝わったようだった。

「…はぁ、景衣。そんな事を言っては…きりが無い。…制限無く抱きたくなってしまう。
離したくなくなってしまうだろ」

言葉にすれば虚しいのは解っているのに。

「大丈夫です。まだ許されますよね?
課長の結婚はまだまだ先です。まだ結婚して無いから。…猶予はあります。
……朝までなら、大丈夫です」

どんな結婚でも、これは許され無い事だと思った。解っていて言っている。
本当はこの言葉が、課長にとって良かったのかどうか解らなかった。
…朝までなら大丈夫は、それ以上の関係は持たないと言った事になる…。
朝までが許された時間。だと自分で思う事にした。

私には、まだどこかはっきりしない、男と別れたという事実の虚しさがあった。…傷付いているんだって。
その事は、課長に抱かれた事で、あっさり消えて報われた気がした。

あれから別れた男の事は忘れていたし、忘れられた。
こんなに思い出す事もないんだと、本当に…思い出す事は二度と無かった。

課長に好きだと言われ、求められた私は、多分、どこかで自惚れていたのだと思う。
調子にのっていたのかも知れない。
上にでも立ったつもりだったのか…嫌な女だった。昔も今も…。
< 57 / 110 >

この作品をシェア

pagetop