夜界の王
急に目の前が真っ黒になった。
正確には、目線の先を黒い何かが遮ってしまったのだ。
横たわっているアーシャの眼前に映ったのは、黒い靴のようなものだ。
紛れもなくそれは人間の足だった。
アーシャの胸には安心よりも不安が広がる。
(まさか、村の誰か?)
逃げ出したアーシャを追って連れ戻しに来た村の人間だろうか。
だがこんな夜更けにわざわざ危険な森に入ってまで、自分を連れ戻そうとする者がいるとは考えにくい。
村の人間ではない。だとしたら一体誰?
目の前の人物はゆっくりと膝をついた。
夜のせいなのか、その姿が真っ黒に染まっており、まるで影が動いているように思えた。
身を固くするアーシャの頰に、そっと何かが触れた。
それがその人物の手だと気づいた時、アーシャは息をのむ。
冷たい。温もりがない。
まるで死人の手に触れられたみたいだ。
ぞわりと全身が硬直する。
長く外で横たわったままだったアーシャよりも体温が低いことなどあり得るだろうか。
アーシャは膝から上へ辿ってその人物の顔を探った。
目線の先の顔は、背後の月のせいで暗くなり判然としなかった。それでもその人の双眼がアーシャをじっと見下ろしていることはわかった。
お互いの目線が交わった。
「…なんだ、生きていたのか」
低い男の声だった。
恐ろしさのあまり、アーシャは叫び出しそうになった。けれど喉がカラカラに渇いて、掠れた息しか吐き出せなかった。
体温でも測っているのか、男の手はアーシャの額に触れ、続いて輪郭を伝い顎の下の首筋に指が滑っていく。
冷たい手が皮膚を滑っていく感触に、アーシャは悲鳴をあげたい気持ちを必死にこらえた。
飛び起きて逃げ出したい。なのに身体が全く動かない。立ち上がれない。
「娘、なぜこんなところで寝ている?」
「……っ」