夜界の王
「…なぜ泣く」
やがて、頭上から低い声が言った。
アーシャは顔を上げなかった。
上げられなかった。
泣いていない、と言いたかった。でも、口からは言葉にならない嗚咽が漏れるばかりだった。
「どこか痛むのか」
まるでアーシャを心配しているようなことを言う。声音は相変わらず淡々としていて、彼の真意がわからない。
アーシャは黙ってただ首を振る。
俯くと余計に涙が止まらなくなった。
重い首を持ち上げ、男が進む先を見やった。
「…どこに行くの…」
「俺の屋敷だ」
「………あなた…だれ?」
「…………」
男は答えなかった。
アーシャは小さく自嘲する。
誰だかわからない不気味な男に抱かれ、なすすべもなく腕の中で揺られるのみ。
ひとりでに言葉がこぼれていった。
「騙されて、逃げてきて、また捕まって……もう何が何だかわからない…。もうたくさんよ、なにもかもどうでもいい…」
自分の耳にも届かないほど細い声しか出ない。
男は聞いているのかいないのかわからない。
アーシャを抱く腕が僅かに動いただけだった。