夜界の王
『あんまり遅くまでいるんじゃないよ。夜の森は物騒だからね』
立ち去る間際、村人の1人がアーシャにそういさめていったのを思い出す。
「…帰らなくちゃ………」
夜の森は危ない。
この森は魔物が出るのだ。
昔から村ではそう言われ続け、たとえ昼間でも森の奥深くまで入り込むことは禁じられていた。
人間が暮らす世界と隣り合わせにするように、「この世ならざる世界」は平行して存在する。
草木が発する自然の大いなる磁波に触発され、森の中は生と死の気が混合し混沌と化すのだという。
日が沈むと自然の神々も眠りにつく。代わりに闇が世界を覆うと、地中に息を潜めていた悪魔や、人喰いさえもする恐ろしい魔族が森を徘徊するのだ。
昔から村に伝承されてきた話だが、実際悪魔のようなものをはっきりと目にした者はいない。
伝説に近い話なのだろうが、森で迷子になれば抜け出すのは難しいのは確かで、危険なことには違いない。
冬が明けたとはいえ、日が沈むのは早い。
首筋を撫ぜる風が冷たくて、アーシャはふるっと身を震わせた。
腰を上げかけたその時、ふと、視界の隅になにか影のようなものが動いた気がした。
「……?」
村の誰かが、自分を心配して戻ってきたのだろうかとアーシャは思った。
けれど辺りには誰も見当たらない。
「…誰か、いるの?」
アーシャは影を見た気がした大木の方に向けて言った。
先程まで冷たかった風が、気づくと生温いじっとりとした風質に変わっていた。
風は草をそよがせていくだけで、人の声はしない。
アーシャは恐る恐る立ち上がる。
“夜の森には魔物が出る”
(…まさか。ただのまやかしよ)
墓地の周辺は、魔除けになる朱色に塗られた岩石と木片が添えられている。
それをちらりと横目で確認してから、アーシャは大木のそばへと足を進めた。
母が眠る場所に、怪しげな何かを寄せつけたくはない。
もしも悪さをする獣や、信じてはいないけれど魔物のようなものだとしたら、なんとか追い払わなければ。