夜界の王
一歩一歩草を踏みしめ、近寄る。
目の前の木は、人が隠れるには十分な太さだ。
誰かの気配は感じられない。
それでもアーシャは意を決して木の裏をのぞいた。
「…誰もいない…」
ほっと肩の力が抜ける。
見間違いだったんだ。
が、視線を落とした時に幹の根元にあるものに目が止まり、アーシャは息を詰めた。
剥き出しになった大木の根の上に、そっとその場に添えるように、一本の白い花があった。
花弁が大きく、アーシャの片手をめいっぱい広げたほどの大きさだ。
根元には手でちぎったような痕跡があった。
深い青に染まり始めた森の中で、その花だけが白く光って見えた。まるで雲のない夜空で一際輝く月のように。
アーシャはその花を持ち、周りを見渡した。
生き物の鳴く声もない。生温い風だけが木々の隙間を通り抜けていく。
冬の葉が擦れ合う音は、悲しげにも楽しげにも聞こえた。
「…神様からの贈り物なのかしら」
アーシャは白い花を大切に胸にかかえ、母の墓標を見つめた。
母を失って途方にくれていた自分へ、励ましの花を贈ってくださったのかもしれない。
星が瞬きだす空を見上げて、アーシャは感謝の言葉を天に捧げた。
少し怖かったけど、孤独の不安に凍えていたアーシャの心はじんわりと温かくなった。
(なんて名前の花だろう?)
香りをかいでみると甘い匂いがした。すぐ枯れてしまいそうだけど、花瓶に入れて水を与えよう。
小走りで村まで帰っていくアーシャの背は、少しずつ明るさを取り戻していた。