不思議な眼鏡くん
咲は両手を床について、倒れそうになるのを必死にこらえた。
これは夢なの?
「俺はそこを出た。一人でなんでもできるから、不自由することはなかったよ。偽りの身分を得て、偽りの暮らしをする。自分の過去を知りたいとも思わなかった。だって……俺が何か取り返しのつかないことをしでかしたんだと思ったから。自分自身で記憶を消したんじゃないかな」
小さく笑う。
「現実に耐えられなくて」
そして、ため息。
「でも何年か過ぎて、毎日どうしたらいいかわからなくなった。だからたまたま目に入った会社に入った。志望動機なんか何にもないよ。履歴書も嘘ばかりで、入社試験も受けなかった」
空気が、動き始めた。
それは咲の体を取り巻き、撫でて、響へと集まっていく。
不思議なことに、咲にはその風が見えた。
「努力なんがしなくていいんだよ。俺はなんでも思うようにできる。ただ座ってちょっと考えるだけで、思い通りなんだ。だからあなたが」
響の声が少し震えた気がした。
「あなたが、たかだか一本の契約を取るために、死ぬほど頑張ってるのを見て『バカみたいだ』って。『くだらないなあ』って思って」
響が言う。
「目が離せなくなった」