不思議な眼鏡くん
オフィスの中に、風が吹き荒れる音がする。
「あなたの視界に入ってみたい。あなたの記憶に残ってみたい。誰も俺を知らないけれど、あなたには知ってもらいたい」
響が一歩前に足を出した。
「そんな風に願って、愕然とした。自分でも自分が何者なのかわからないのに……たまに、見えるんだ」
今や風で窓が鳴りだしている。
「自分の記憶は消したはずなのに、見えるんだ。俺を見て、恐れて泣いている、母親らしき人の顔が」
響が目をこすり、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「あなたと過ごしたかった。傷つけ怖がらせることになるだろうって、わかっていても手放せなかった。あなたの香り、温度、感触。髪を梳くと幸せそうに微笑んで、キスをすると照れたように笑う。あなたと過ごした記憶は、消さない。俺だけの記憶だ」
響は目の前までくると、しゃがんで咲に視線を合わせた。
「ごめんね」
響が言った。
咲はその瞳から目が離せない。真っ赤になってて……。
泣いてる。
響は泣きながら目を何度もこすり、懸命に笑顔を作った。
「怖がらせたくないけれど、感情で誘発されたりするから。でも大丈夫、安心して」
響は掌を、咲の額にそっと当てた。
「全部、綺麗に消えるよ」
そう言われて、咲はとっさに「いやっ」と口にだした。
でも声にならない。
喉が詰まって、声がでない。
いやだ、消さないで。お願い、いやだ!
「愛してるよ。だから全部忘れて」
響の掌がカッと熱くなった。
いやよ。忘れたくない。あなたのこと、忘れたくないの!
「さよなら」
響の声が耳の奥に届くと同時に、咲は意識を失った。