不思議な眼鏡くん
席に戻ると、すでに芝塚課長はすでに出社していた。
咲のチームは……響だけまだ出社していない。

田中くん、お休みだったらいいのに。

そんな上司あるまじきことを考えて、咲は心の中で自分を激しく叩きのめした。

最終的には、なにもなかった!
ちょっと一緒のベッドで寝ただけ。
ちょっとキスをしただけ。

『少し入らせて』
またもや響の声が頭の中に響く。

とたんに、胸がドンドン大きな音を立て始めた。

ああ、もう。わたしのばか。

「おはようございます」
そこにリアルの声がして、咲は思わずビクンと体が動く。

キィと椅子のなる音がして、響が隣の席に座った。

「おはようございます」
皆が口々に挨拶した。

「おはよう」
咲も務めて普段通りの声で挨拶をする。

でも、見られないっ。
響の顔が見られない〜っ。

必死にパソコンの画面に視線を向ける。

彼が動くと、空気が動く。その熱を感じてしまう。彼の香りに包まれる錯覚に陥る。
昨晩、腕を回されて胸に抱かれた、その時間を頭の中で何度も繰り返す。

「鈴木主任、どうかしましたか?」
響が突然顔を覗き込んだ。

「え!? いや、別に」
おかしな声が出る。冷静さのかけらもない。

響はいつものようにメガネをかけて、前髪を下ろしている。無表情だ。にこりともしない。
昨日みたいに、頬を上げて笑うことなんて、一度もしたことがないように。

「鈴木主任は、昨日の夜、いろいろあったみたいですから」
ちづが含みを持たせるように言った。

「いろいろ?」
目の前に座る樹が、眉を寄せる。

「なんにもない」
咲は冗談をたしなめるように、少しきつく声を出した。

ちづがぺろっと舌を出す。

自分を奮い立たせなくちゃ。こんなことでミスするわけにいかないんだから。

咲は気合をいれると、とにかく今日は隣を無視すると心に決めて、仕事を始めた。
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