不思議な眼鏡くん
六本木近くのマンション。

「こんなところに住んでたんだ。会社からも近いし、便利だね。わたしのマンションはちょっと遠くて、でも広い方がいいかなって思って」

響がポケットから鍵を出す。

「饒舌」
響が笑いを含んだ声で言った。

咲ははっと口をつぐむ。

緊張で、何かを喋っていないと、自分が保てないのだ。

「どうぞ」
響は咲を部屋に通した。

新築の匂い。白い廊下の右側にバスルームとトイレ。左側に一つ扉。廊下の突き当たりを開けると、リビングが広がっていた。

十二畳ほどの部屋。目の前には広い窓。六本木の夜景が見えた。革張りのソファと、毛足の長いグレーのラグ。

驚くほどシンプルで、生活感がない。

「何か飲む?」

「ヒャッ」
突然声をかけられて、咲の口から変な声が出てしまった。慌てて口を押さえる。

キッチンで、響が笑いをこらえている。眼鏡をとって、髪をかきあげた。

「飲み物は、いいです」
咲はリビングの片隅で、まるで彫像のように動けない。

「じゃあ、どうする?」
響が笑いながら尋ねた。

「ど、どうする?」
咲は前のめりに聞き返す。

「シャワー? シャツ貸すよ」
「は、はい」

咲は響に導かれるまま、バスルームへと向かった。

「じゃあ、これね」
タオルと着替えを渡されて、バスルームの扉がしまった。

思わずほっと息をつく。シャツのボタンを取ろうとして、自分が細かく震えていることに気づいた。
「あ、まずい」
両手を握りしめた。

わたしは今、人生で初めて無謀なことをしようとしている。会社の後輩で部下の男の子と、これから大人なことをしようとしてて。週明けからどんな顔で会えばいいかとか、あのひとにとっては趣味でしかない行為なんだとか、それって自分を大切にしてないんだろうかとか、いろいろ頭に浮かんでくるけど。

でもいいんだ、これで。きっと後悔しない。
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