不思議な眼鏡くん
早く家を出ないと、この幸せに溺れてしまう。あんな風に抱かれた後で、二人の間に線を引きなおすのは、相当の覚悟が必要だ。

あの人にとっては、趣味に興じた一夜でしかないのだから。

身支度をしてリビングに行くと、太陽の光が入って明るい部屋のソファに、響が座っていた。膝を片方立てて、窓の外を見ている。

「ありがとう。帰るね」
咲はリビングの入り口のところに立ったまま、声をかけた。

響が振り向いて、目を細める。

咲の胸がつかえた。さっきまで笑いあっていたのに、もうこんなに二人の距離は離れている。寂しさに涙がこみ上げた。

「ずっと、未経験ってことが重荷だったの。だから今は解放されて、本当に感謝してる」
言葉が次々と口から出てくる。

余計なことも、余計じゃないことも、思っていることも、思っていないことも。二人の間の距離を埋めようと、次から次へと溢れてきた。

「田中くんにとっては、女の子を泊めるなんてこと、よくあることだと思うんだけど、わたしには特別な夜だった。最初の夜があんなに……あんなに幸せで、本当にいい思い出になった」

響が膝の上の手を握りしめるのが見えた。

「もう切り替えて、来週からは会社でいい上司でいようと思うから」

咲は頭を下げた。
「本当にありがとう」

くるりと背を向けて、玄関へ向かう。
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