差し伸べた手
こんな光景は想像もしていなかったし、したくもなかった。

どうして私は見知らぬ男とテーブルを挟んで二人きりで食事をしているのだろうか。

それも食事をはじめてからこの男は一度も言葉を発していない。

料理が出来るまで男はソファーに寝ころび死んだように眠っていた。

その後料理の匂いに誘われて目を覚ましガツガツと食べ物を口に詰め込んでいる。箸を持つ手は細く長くピアノがスラスラと弾けそうな指だ。

多めに作った料理を全て平らげフーッと息を吐いた後男は満足げな顔して初めて口を開く。

「本当に美味しかった。ありがとう」と手を合わせる。

亜子は恐る恐る尋ねる。

「あのー、誰ですか?どうして私の家の前で倒れていたのですか?」

男は急に立ち上がり深々とお辞儀をして謝る。

「本当にすみませんでした。そして助けてくれてありがとうございます」

水と料理でこんなに感謝されても困ると心の中で戸惑っていると男は続けた。

「何も聞かないでください。そして図々しいお願いとわかっていて言います。ここにおい下さい」

「は?無理です。私は一応女性の一人暮らしです。警察呼びますよ」

すると男は床に土下座して 「お願いします」と懇願する。

土下座をすればどんな事でも許されると思っているのか知らないけど私には通用しないからとスマホを手にとる。

男は慌てた様子でそれを取り上げようとする。

「ま、待ってください。事情を話しますから」

男の必死の様子に亜子は自分を落ち着かせてテーブルに座った。その様子を見て男も向い側に座る。

「僕は昨日家を出てきました。住まいは東京です。しかし東京の生活に耐えられなくなって逃げてきたのです。
行くところもありません。家族に見つかれば連れ戻されてしまいます。しかし帰りたくないのです」

「それはあなたの事情でしょ?それを聞いてああそうですかとは言えません。だいたいどうしてこんな所に来たのですか?知り合いでもいるのですか?」

「いえ。ここに来たのは初めてで知り合いもいません。とにかく遠くに行こうと適当に電車に飛び乗りました。初めは目的をもってある場所へ向かったのですが、その後駅へ戻ろうと思ったら陽が落ちてきて迷ってしまい、とにかく歩き続けました。歩き続けている内に喉も渇いてお腹も減ってきたのですが自動販売やお店も民家もありませんでした。朦朧としている所にこの小屋が見えました。その後は覚えていません」

それはそうだ。ここは最果ての地で住んでいる人も殆どいない。

自動販売機やお店なんてあるはずもない。だから私は敢えてここに来たのだ。誰にも干渉されず、近所づきあいもなく、店もない。

それを望んで来たのになぜ知らない男と住まなくてはいけないのか理解出来ない。しかし、この時間に追い出すことはこの地に住む者にとっては酷な事だと充分に知っている。駅まで徒歩一時間はかかる。

車で送っていってもいいが、とっくに電車の時間は終わっていて無人の駅には駅舎もなく寝る場所もない。亜子は決意したように口を開いた。

「わかったわ。その代わり今日一晩、そのソファーを貸してあげる。一歩でも私の部屋に近づいたらすぐに警察に通報するから」

「ありがとう」と男は深々と頭を下げた。
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