差し伸べた手
男はテーブルに並べられた食器を手早く台所に運び洗い物を始める。

「ちょっと、いいわよ。私がやるから」

「いえ、せめてものお礼です。やらせてください」

亜子は手持ちぶさたになりながらソファーに座ってスマホをいじる。いじっている振りをしながら男の後ろ姿を観察していた。

食器は洗い慣れているようで手早く綺麗に片付けている。歳はきっと三十代前半で自分とさぞかわらないだろう。

結婚指輪はしていないが近頃しないものも多いのでそれだけでは判断できない。身なりは決して安物ではないようだ。

都会から離れて数年経ちファッションに関する情報のアンテナは古くなっているが長年アパレルで働いていたのだからそれくらいはわかる。靴もシンプルなデザインだが高級品だ。

しかし、東京から逃げてきたというのはどういう理由だろう。

亜子も数年前に同じような事をしているので共感出来る。もしかして家族というのは妻や子供だろうか、うまくいかなくなって逃げ出したのだろうか。それなら離婚すればいいことだ。

大の大人が連れ戻されるとはどういうことなのだろうと色々考えているところに男から声を掛
けられて我に返る。

「あの、図々しいお願いなのですがシャワーをお借りしてもよろしいでしょうか」

今日のような炎天下を数時間歩いてきたのだから当然だろう。

「奥にあるのでご自由にどうぞ」と少しぶっきらぼうに言った後、

「ちょっと待って」と思い出したように、新しいタオルと亜子には少し大きめのTシャツを男に渡した。ここには

誰かが泊まりに来ることがないので、ついつい当たり前の事を忘れてしまうのだ。

家の中には荷物は少ないが洋服だけはたんまりあるのである。男は嬉しそうにそれを受け取りお辞儀してシャワー室へと消えていった。
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