差し伸べた手
ふとテーブルを見ると男が置いていった財布に目がいく。

いくらなんでも勝手に見るのは人としてどうか。
いや、どんな者かもわからないのだから確認した方がよいだろうと頭の中で両極端の意見が言い合いしている。

免許証が入っていれば何かあったときでもその情報をメモっておけば今後の役には立つかも知れない。

思い切って財布に手を伸ばす。横長の財布をそっとあけるとカードがずらりと並んでいる。

それを見て驚いた。

今までアパレルで働いていたが大勢のお客の中でブラックカードを持っている人は一人も見たことがなかった。そのカードが今ここにあるのだ。それに驚いている場合ではない。

とにかく免許証を引っ張り出しスマホで写真を撮る。男がシャワー室から脱衣所に出た音がしたので焦りながら免許証を元通りに直して財布を置いた。

「何者?」

亜子はブラックカードが頭からちらついて離れない。

よく社内でどんな人がブラックカードを持っているかなんて都市伝説的な話をして盛り上がっていた。年収が数千万だとか買い物限度額が無限だとか芸能人で誰が持っているかだとか。

自分が生きている間に本物のカードを見ることがあるとは、ましてやこんな田舎町で見るなんて思いも寄らなかった。いや、あの男は悪いやつで偽造カードかも知れない。

さっきは焦って免許証の写真を撮るので精一杯できちんと見ていない。あとでゆっくりスマホの画像を見てみようとあれこれ考えている内に男はリビングに戻ってきた。

「ありがとう。このTシャツぴったりです。それにこの着心地最高なんだけど」

「あ、あそう。良かった」と動揺を必死で隠しながら

「私もシャワーに行ってくるわ」とそそくさとリビングを後にした。

シャワー室に入ってスマホの画面を開ける。

免許証はばっちりと写っていた。

「吉沢直(よしざわなお) 現住所東京」


免許証の写真をまじまじと見たが紛れもなく本人だった。生年月日を見ると同い年だった。

もしかして私はここに来てからテレビのない生活をしているので知らないだけで、ここ数年で爆発的に売れた俳優とかかも知れない。

なかなかの顔立ちだし背も高くスタイルが良いし着ている服も高価だ。ましてやブラックカード。

だが何かあって芸能界が嫌になって逃げてきた。そして事務所に追われているのか。

スマホで 「吉沢直」を検索してみたがヒットしたのは初老の小説家だけだった。
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