差し伸べた手
シャワーを終えてリビングに戻ると男の姿がない。部屋を見回すとデッキへ続くガラス扉が開いている。

外に出て風に当たって居るのだろうかと思いデッキを覗くと男はしゃがみ込んで肩を上下させ苦しそうにしていた。

亜子は慌てて

「大丈夫ですか?」と近寄ると

「大丈夫です。すぐに治まります」と言いながらその場で五分ほど動かなかった。

亜子にも経験がある。東京で働いていたときに同じ症状に苦しめられたからだ。

度のストレスで眠れない日が続いたある時、急に息が苦しくなり全身の力が抜けて気が遠くなりその場に座り込んだのだ。

一度や二度ではなくここへ来てもしばらくはこの症状に悩まされた。しかしここの生活にも慣れて東京での生活を忘れつつあった時期に知らない間にこの症状は治まった。

きっとストレスからくるものだろう。何があったかはわからないが悩みに悩んで逃げてきたかも知れない。亜子はそれ以上掛ける言葉も見つからず男の丸くなった背中を見つめていた。

 その夜寝室の扉の鍵を掛けてスマホを握りしめて寝た。深い眠りについたのは朝方だったような気がする。翌朝目を覚ますと台所から音がし、一瞬恐怖を感じたが昨日のとんでもない現実を思い出して苦笑する。

リビングに行くと男は朝ご飯を作りながら亜子に気づいて

「おはようございます」と言った。

「お、おはよう」と数年ぶりかにこの言葉を発した。

テーブルには日本の和定食が並んでいる。まるで旅館に来ているような料理だ。亜子も基本自炊だがここまで手の込んだものは朝から作っていない。

感心しながら眺めていると熱々のおみそ汁が運ばれてきた。

「すみません。勝手に冷蔵庫の物、使わせてもらいました」

「勝手な行動には慣れていますので」と皮肉を言う。

男は苦笑いしながらテーブルについて朝食を取った。料理はなかなかの腕前で、ここへ来て外食するという事が皆無なため、人の作った食事も良いものだなと感心したりした。そして食事が終わる頃男は話し始めた。

「昨日はありがとうございました。私は吉沢直(よしざわなお)と言います。東京で会社員をしていましたが、人事異動に納得出来ずに会社に何も言わずに飛び出して来ました。辞めるつもりでいます。帰れないのは実家だからです。会社は親のコネで入りましたので居づらいのです。部屋を借りたら出て行きますのでそれまでおいていただけないでしょうか」

一瞬昨夜のブラックカードを思い出し

「そのカードで家でも買えば」と言いそうになったが、財布をこっそり見たことは秘密なので言えない。

「あのさ、貯金とかカードとかで家なんてすぐに借りられるよね」と鎌を掛けてみた。

「キャッシュカードは持っていますが東京から出るときに引き出そうとしたら停止されていました。クレジットカードも同じです。そういう親なのです」

「でもさ、ここでお金は貯まらないよ。だいたい働くところもないしさ」

「パソコン持っていますか?一台貸していただければお金を稼ぐことは出来ます」

「持っているけど一台しかないし、日中私も使用しているから無理なんだけど」

亜子はネッショップを開いて収入を得ていた。

アパレルで長年働いていた時に多くのメーカーの商品を見てきて、その中で一番のお気に入りのメーカーに頼んで小ロットの仕入をさせてもらいネットで販売していたのだ。

「わかりました。ネットでパソコンを購入します。買うお金は何とかあります。それで収入は確保できます」

「どうやって?」

「プログラム作成です。僕の趣味ですが今までに何件か依頼されて作成しました。ネットで仕事を請け負えばいくらかになると思います」

亜子は昨晩の苦しそうにしている男の様子を思い出すと同情心が芽生えてきた。

男にとって苦しい状況から逃げてきたのにまた戻してしまっては、あの症状は酷くなるだけだろう。亜子も東京では良くなることはなかったし 思い切って環境を変えなければ良くなら無いことも知っている。

「わかったわ」と答えた。直は深々と頭を下げた。

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