神鳴様が見ているよ
7章 ふたりの重なる想い
結局、蒼の服を着て、リビングに行ったけど、彼の姿がない。
もうひとつのドアの向こうが、彼の寝室だろう。
 窓を見ると、外はすこし明るくなって見通しがよくなっている。
雨はやんだようだ。
 ドアをノックするけど、反応がない。
耳を当てて、もう一度ノック。
微かな衣擦れの音がする。
「蒼、入るよ」
 窓際のベッドに蒼が体を丸めるように寝ている。
彼の背中に指先で触れる。
「え、調子わるい……」「触るな」
 低く、重い口調に弾かれたように、手を引っ込める。
強い拒否に、涙が出そうになった。
「ごめん。あ、帰るね、色々、ありがと」
 泣きそうになるのを堪えるために、早口で用件を言って、後ずさりする。
「理和、抱いてから、誕生日が嫌いだ。思い出すから」
「あ、お?」
「誕生日は、ずっと、ひとりでいるんだ」
「え、彼女、は」
「いつも、誕生日前に別れる。そんなんだから、当分、俺そういうの無理。理和なんか、結婚しちまえよ、さっさと」  
「しないよ、私……」
「無理だって、言ってるじゃないか! もう手の届かないところまで、いっちまってくれよ!」
「私だって、無理だよ。きっと、蒼の方がパートナー見つけるの早いよ」
 蒼は、起き上がって、拳をベッドに叩きつける。ギシっと、きしむ音がした。
「バカ野郎っ、そんな話しなら帰れ! もう、来るな! 本当は、会いたくなかったんだ、今日だって!」 
「……っ、わかった。さよなら!」
 
 どうして、こうなったんだろう。うまく、伝わらなかったんだろう、最悪だ。
 それでも、売り言葉に買い言葉だけど、あとには引けない。
ドアに向かい、ノブに手をかける前に、肩越しに蒼を振り返る。
 そのまま、蒼の横顔から瞳が離せなくなった。
 今までに見たことのない表情だから。
 だって、今にも泣きそうな顔をしてる。
それを、我慢するように、唇をかみしめて。
 また、私、蒼を傷つけたんだ。
 いつも、いつも、そんな表情してたの? 私の見えないところで。
 平気な顔ときでもココロはいつも、そんなんだった? 
 もう、キズつけたくないって、何度も、思ってるのに、私はいつも、失敗する。
(きっと、蒼とは、もうダメなんだ。どうしても)
 ノブを回す『カチャ』という音が大きく響く。
「ど……して、理和は、俺から、離れることばかり、だよ」
 ドアの外に踏み出した足を止めて、ノブを握る手に力が入る。
「なんで、俺と向き合えないんだ」
「だって、蒼、私から離れるって。私といるの、イヤだから、家にも戻ってこないし、今だって」
 あの事を、伝えられない限り、蒼には、向き合えない。伝えたくないから、蒼の方にはいけない。このターンの繰り返し、いつまでも、伝えられない想いは止まったまま。
「理和に、どう許してもらえばいいのか、わからない。そもそも、俺が側にいることで、理和を苦しめることになるのかって」
 ぎくりと肩が上がって、ドアノブから、手が離れた。そして、自分を守るように、震えだした肩を抱く。
「理和自身から、聞かされなきゃいけないことがあるはずだ。俺も、考え無しだった。自分の欲だけで、理和の体の事なんて考えることなかった」
 声が届く響きから、蒼が私を見て話したことがわかる。
「あ……お、なんで……?」
 どうして? 知ってる? 蒼の方を向きたいけれど、震える体を支えるのが、精一杯で、動くことができない。
「……さん、が、あの後、理和、どうなったか、知っておくべきだ、って」
 かくっと膝が、抜けるように力を失って、肩を抱えたままドアにもたれて、そのまま床に座り込む。
 早足で私に近づいてくる足音が聞こえる。
 あの事では、泣いて、泣いて、もう涙は尽きていると思ってた。それでも、まだ、残ってたんだ。
 これは、蒼に知られてしまった事の分の涙、だ。
「っ……、う」
 指先がためらいがちに、髪に触れた感触。でも、すぐに離れた。
「あ、お、が、許してもらえれば、なんて、思うことはないの」
「俺にも、責任あるだろ」
「ない、責任、なんてっ。だって、なにもなかった! 蒼だって、そう言ったじゃないっ。私、なにも、なかったようにしたもの!」
「理和、話してくれ。俺には、権利だってあるはずだ」
 肩を抱いていた手の手首を握られて、ドアに押しつけられた。それでも、蒼の顔を見ることはできなくて、首の力を失ったように、頭を下げる。
「ないってばっ! だって、なんにも、なかったの、なくなっちゃってた。だから……っ」
 言葉が続かなくて、嗚咽になる。
蒼のハーフパンツを涙がどんどん濡らす。
それを見ていたくなくて、強く瞳を閉じる。

 蒼が、大きく息を吸い込む気配を感じた。
「だったら、俺んとこ、こい!」
「ダメ、だよ。いけない……」
「聞こえない。こっち向けよ、理和! 俺を見て、言ってみろ!」
 何度も首を横に振る。握りしめられている手首が痛くて、震えてきた。
「蒼、キズ、つけるだけ……つらい」
「聞こえない! 俺を見て、言え!」
 蒼の想いは手首の痛さで伝わってる。顔を上げて、彼を見たら、きっと、すぐに受け入れてしまう。
 自分の身勝手なことを、隠したままにして、また、居心地のいい方を選ぶの?
 もう、蒼をキズつけたくないって、どれだけ後悔したの? 許してもらうのは、蒼ではなく、私の方なのに。
 瞳を開けると、涙のシミが広がったハーフパンツ。
また、ぽとっと涙が落ちた。
すっと息を吸って、奥歯を噛みしめる。
「りゅ、流産、お腹にいなくなっても、ちっとも悲しくないし、よかったって思った、の。むしろ、なくなって欲しいくらい、だったし」
 蒼の体が、ビクっと跳ねるように動き、震え始めたのが、手首から伝わってきた。
「お母さんに、蒼に言う? って、聞かれて、関係ないって。本当に蒼とのこと、なかったことにしようとした。それで、安心しようとした!」
 蒼が握ってる手から力が抜けたから、手を拳にして逃れようとしたけれど、すぐに、また、強く握りしめられた。
「そう思ってた自分を蒼が本当に嫌っちゃうんじゃないかって、怖くて、それが悲しくて。命ひとつ、落としたくせに、そんなこと考えてる薄情で非道い私を、蒼は、もう、想うこと、ない、よ」
 瞳を閉じると、体全体から力が抜けて、倒れ込みそうになる。それを支えるのは、蒼が握って、ドアに押しつけられたままの手首。
「俺のせい、じゃないか。理和が、こんななの、どうして、俺」
「ごめん、違うよ。蒼のせいじゃない、私が自分の都合のいいように思ったことに、勝手にキズついてるだけだもの」
「どうして、理和は俺を想ってくれないんだろうって……なんだよ、馬鹿みてー」
「想ってるよ、蒼が幸せになればいいって。私がキズつけた分、誰かに癒されて愛されて欲しいって」 
 私が、決して、してあげられない幸せを、と願ってるよ、いつも。
 でも、それは、悲しい願いだとも、思ってる自分に嫌悪して、いつも。
 止まらない涙、開けられない瞳はいつまで、こうしていればいいんだろう。
〝ひっく、ひっ″と、しゃくりあげるような泣き声になる。
 口を押さえたくて、手首に力を入れるけど、蒼は離してくれない。
「俺の理和のいない幸せなんか、想うんじゃねーよ。どこまで、勝手なんだよ」
「もっ、離し、てっ」
「どうして、俺を見ない。でなきゃ、離さない」
「わ、たし、は、私を、許せないの。私の非道いの、わかったでしょ」 
「お互い、だろ。俺だって、自分を許せないんだ。許しを請うでは、解決しないことなんだ、一生。それで泣いてる理和に寄り添うのは俺しかいないじゃないか」
 たしかに解決しない、答えのないことだ。許す、のではなく、寄り添うことだと。
 それならば、できるのかもしれない、蒼と一緒にいられるのであれば、それを選びたい。 
 顔を上げようと、一瞬、息を止めて、首に力を入れる。
「あ、いっ」
 泣きすぎて、鼻声の喉から絞り出すような小さな声に、蒼が、顔を寄せてきた。
「ん?」
「あ、お、ゴメン」
 ビクッと、蒼の体が、震えたのが手首から伝わってきた。ゴメン、蒼。
「……ナニ」
 一呼吸置いて、警戒するような低い声が聞える。
「く、首、痛くて、上がんない。助けて……」
「え、はぁ?」
 キーの高い、クエスチョンを含んだ声。とたんに、手首が解放されて、肩を支えられた。
「おい、どうしたら、いいんだ」
「出来たら、持ち上げて、肩に、乗せさせて」
 そっと、頬と顎に手が添えられて、ゆっくりと、持ち上げてくれる。
 ギギギと首の骨がきしむような音を体の中で響かせるのが耳に届く。
痛くて、ぎゅっと眉をしかめる。
 顎が、蒼の肩に乗り、落ちないように、手も添える。
離された彼の手は私の背中とウエストに回された。
 はーっと、息を吐き、
「ありがと、ごめんなさい」
「もー、なんだかなー」
 蒼も、ふぅっと、ひと息をつく。
「あのね、わかってたの、ずっと」
「んー?」
「だって、嬉しくないの、他の人に、好きと言われても」
「うん」
「蒼だけよ。蒼の『好き』だけ、だったの」
 私に触れている蒼の指先が、握るようにぴくっと動いた。
「ずっと、好きだったの、蒼。言えなかったの」
 蒼の背中に手を回して、抱きしめる。
すると、同時に彼の手にも力が入り、自分がこんなに蒼の腕の中で小さくなるんだって思うくらい、強く抱きしめられる。
「理和……、理和っ」
 怒っているような重くて強い声にふるっと、体が震える。
 小刻みな振動が蒼の体から、伝わってくる。彼の熱い息も熱い水滴も、シャツの背に落ちて。
「理、和をこんな抱きしめんのなんて、どんだけぶりなんだよ、チクショウ……」
 独り言めいたつぶやきは、歯を食いしばって吐き出す声音。
「蒼……」
「こんなたまんないのに、どうして、離れていられたんだよ、俺」
 ふわっと、瞳に涙が上がってきた。
瞬きをすると、すぐにこぼれて、蒼の背にシミを作っていく。
「ん、蒼、私も」
 そのまま、嗚咽を抑えるために、大きく息継ぎをするお互いの胸のアップダウンを感じながら、腕に力を入れて、抱きしめ合った。

  
< 10 / 20 >

この作品をシェア

pagetop