小倉ひとつ。
稲やが瀧川さんの憩いの場であると知っている。

瀧川さんは愚痴や悪口なんて絶対言わないけれど、ときどき遠い目をしては薄く溜め息を吐いて、憂いた瞳を閉じるのを知っている。

瀧川さんが、恋愛ごとに疲れているのを知っている。


だから私は、恋をしない子どものままでいたい。


稲やさんに勤められるようになったのは偶然で、瀧川さんともっと話したいからと狙ったわけではなかった。


偶然だから、多分瀧川さんの目には、よく知っている幼い女の子が成長して仕事をしている、微笑ましい現状として映っている。


偶然だから、瀧川さんはまだ常連さんなんだと思う。


……先ほど見た美しい笑みを思い描く。


何度も何度も、忘れないように、丁寧に思い描く。


何年も見つめてきた瀧川さんが、今日は久しぶりに破顔してくれたのだ。私を警戒しなかったのだ。


とっくに成人した私は、世間的には大人の部類に入る。


お仕事をしているし、身長も平均だし、顔だって特別大人びているわけではないけれど、幼くはない。


だけどどうか、私は瀧川さんにとって懐かしい思い出のままであれ。


腕にぶら下がり、ひっついて甘え、ころころ笑い転げる、昔幼い手を引いた少女のままでありますように。
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