小倉ひとつ。
子どもの仮面を被ることしか、瀧川さんのそばにいられる方法を思いつけない。


だって、無邪気で無知で無垢な仮面が外れたら、きっとあなたは離れていく。


私の視線に熱量がこもったら、その瞬間から、聡いあなたはきっと線引きをする。


今よりもっと丁寧な口調で、外面用のかたい微笑みを浮かべて、今より私を遠ざける。


私は瀧川さんのことを、勤め先と、名字と、小倉のたい焼きが好きってことしか知らない。今以上を知りたいと思ってはいけない。


きっと幼い頃にもっといろいろ聞いたはずなのに、名前だって教えてもらったはずなのに、今はもうなんにも覚えていなかった。

大人になってからは、意識して何も聞かないようにしている。


それでも瀧川さんに恋をした。


背筋の伸びた後ろ姿を追いかけるように通い詰めて、優しい人柄に触れて、恋をした。


瀧川さんの微笑みが好き。

私を呼んだ声が好き。

丁寧なところが好き。

角が四角い粒の揃った字も、節の高い指も、大きな手のひらも、口調も、何もかもが好き。全部全部、好き。


来店時に条件反射のように瀧川さんの左手の薬指を伺うのは、もはや染みついた切なさだった。


……あいているのを確認したって、告白できるわけじゃ、ないのに。


ねえ、瀧川さん。


私ね、あなたに恋をしているのに、あなたの名前も知らないんです。


あなたのことを、全然全然、知らないんです。
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