小倉ひとつ。
「稲中さん、お庭のお掃除終わりました。お座席のお掃除してもいいですか?」

「はあい。ごめんねえ、もうちょっと待ってね!」


お座敷で花を生ける奥さんに声をかける。


お座敷には奥さんしかいないから、稲中さんと呼んでも混乱しない。


奥さんは口調が稲中さんによく似ている。


穏やかでほっとする、軽くて優しい、少し空気を含んだ声をしている。


はいと返事をして、奥さんの作業が終わるのを待つべく、後ろ手で引き戸を閉める。釣鐘がちりんと鳴った。


お座敷の隅に座って、ぱちんと音高く茎を切られた生け花を、背筋の伸びた後ろ姿から覗く。


奥さんがどちらにしましょうと呟いた手元で、ピンクと白が揺れている。

今日は水引とピンクの秋明菊らしい。秋明菊は白い花も綺麗だけれど、鮮やかな色もいい。


……お花を見て意識をそらす作戦は失敗らしい。

持て余した時間に、同じく持て余した感情がじわじわ迫り上がってきてしまっている。


困ったなあ、とゆっくり深呼吸をすると、瀧川さんがまぶたの裏に蘇った。


鋭い目。

驚いた顔。

微笑み。

美しい、笑顔。


「……大丈夫」
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