小倉ひとつ。
この間雨の日に流れたあの曲はよかった。


緩やかな小雨が少しずつ降って、流れて、ゆっくり晴れていくような、優しい音をしていた。


音楽には詳しくないから、これがなんの楽器であるかとか、いつの時代かとか、作曲家は誰であるかとかは分からない。


ただ、優しく上品なこの時間が、とても好きだと思った。


カウンターじゃなくてテーブル席にお願いすればよかったでしょうか、なんて言ったからか、今日は行きますか、ご一緒しませんか、とどちらからともなく連絡をするようになって。


行きますと返信すると、立花さんとたくさんお話したいので早めに向かいます、なんておどけた返事が返ってくる。


ふいに寄越される優しい言葉は、穏やかな微笑みが付随することもあった。


メールでも対面でも、瀧川さんの何気ない一言が私の心音を速める。


なんでもないふりで笑いながら、その度に陰できつく手を握った。


ああ、駄目だ。ちょっと駄目だ。


……どうしても欲が出る。


分かってる。勘違いはしちゃいけない。


でも、会えるだけで充分だなんて、今までみたいに言い聞かせるのは難しかった。


「立花さん?」

「ああ、いえ。なんでもありません」


すみません、ちょっとぼうっとしてました。


私はただの店員で、瀧川さんはお客さまなのだと、うるさい心臓を何度も戒め直した。
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