旦那様と契約結婚!?~イケメン御曹司に拾われました~
けれど、あの日。浅い眠りにつく中で聞こえてきた音は、しまいこんできたはずのピアノの音だった。
全くの未経験ではないのだろうけど、ブランクがある、ぎこちない手つきが想像つく音色。
その音が、慣れない手つきでピアノを弾いていた、あの頃の自分のことを思い出させて、心が闇で覆われた。
『触るな』
『ここには入るなって言っただろうが。今すぐ出ろ』
やめてくれ
触れないでくれ
あの日の恐怖にとらわれたままの、弱い自分を、見ないでくれ。
そんな気持ちに襲われて、冷たい言葉で跳ね除けた俺に、杏璃は傷ついた目をした。
……なんて、ただの八つ当たりだ。
しまい込んだ、ピアノへの思い。
過去に少し触れられただけで過剰に反応して、そんな自分に苛ついて。
なのに、杏璃はそんな俺に対しても背を向けることはなかった。
『いつか玲央さんがあのピアノをまた弾きたいと思える時まで、私が大切にします』
さらにしっかりと触れて、向き合ってくれた。
『玲央さんがピアノを好きだって気持ちも、優しい音も切ない音も、全部伝わってきました』
自分の本音と、向き合わせてくれた。
これまでの自分も、ピアノを好きだと思う心も、なかったことにはできない。
別の人間として生きていく、なんて割り切れるようで割り切れない。
だけど、こんな弱い自分も受け入れてくれる人がいる。
その存在が嬉しくて、優しさが愛しい。
まだ心にあるあの日から続く闇は、完全に拭い切ることはできない。
けれど、それと上手く寄り添いながら生きていこうと思えるのは、君がいたから。