長い夜には手をとって
④めげない男
伊織君の足が治って彼が会社に行きだすと、見事に元の生活に戻った。
つまり、綾が失踪して、伊織君と同居を始めてからのあの生活にだ。
私は基本的には一人暮らしで、伊織君は超不規則な生活。帰ってくるのは深夜か早朝で、流しにマグカップがない時にはスタジオに泊まったんだなということが判る。
ゴミを玄関先に出しておけば捨ててくれてるし、共有スペースの掃除はマメにしてくれているようだった。
だけど、会わない。
そして以前と違うのは、その会えないことが、私に影響しているってことだった。もう以前のように彼の存在などちっとも気にせずに出勤準備をしたり部屋でダラダラしたりテレビに笑ったりなんか出来ない。
あのキス以来、私は異常に彼の存在を気にしてしまって、夜帰宅してからと朝起きて出勤するまでは、そわそわするのをしばらく止められなかった。きっと彼の顔を見れば大いに挙動不審になったと思う。
だから、最初は辛かった。
あのキスの理由も判らなくて。今の状態が、無視されているのか普通の行動の結果なのかもわからなくて。
だけどそのうちに、落ち着いてきた。同じ家に住んでるのにちっとも会わない期間は、私を徐々に冷静にさせてくれたのだ。
本音を言えば、助かったってところだろう。突然のキスから3日後には、伊織君に会えないことを残念に思う気持ちよりもほっとしている気持ちの方が大きかった。
だって次に顔を見て、もし伊織君が私に微笑んだりなんかしたら、私はきっと恋に落ちてしまうに違いないのだから。そうでなくてもちょっとした瞬間にあのキスのことを様々と思い出してしまって、歩く変人になってしまっている(百面相だ、真っ赤な顔で)。